2024年10月20日日曜日

ピレモンへの手紙 「主が愛してくださったように」

 ピレモンへの手紙 「主が愛してくださったように」


今日のメッセージは教会の交わりが生き生きと、喜びと感謝に満ちたものとありますように、力に溢れたものになりますように、というものです。


人間から出る不満と不安に満ちた教会と、神様から与えられ注がれる喜びと感謝と力に満ちた教会とどっちがいいですか?不安と文句の人生と、喜びと感謝の人生とどちらがいいですか?不安と文句だらけの人生は僕は嫌です。


この手紙は使徒パウロが、遠く離れたピレモンとその家の教会のメンバーに宛てた手紙です。

ピレモンとその教会のメンバーたちはパウロにとって同労者であり、戦友です。一緒に苦労した大親友たちです。


(ピレモンへの手紙 1章1-3節)

1,キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンと、

2,姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。

3,私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。


●生き生きとした交わりと祈りのお手本


パウロは用事のある時だけピレモンと教会のことを考えているのではないです。彼は牢屋の中でいつも祈っています。そして思い出しては感謝してます。全てのことについて感謝しなさいって聖書は言いますけど、その通りにパウロは祈る時に感謝しています。


(ピレモンへの手紙 1章4節)

私は祈るとき、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています。


パウロはこの教会だけでなく、いろんな教会のメンバーを思い出しては感謝しているのがわかります。ピリピの教会のメンバーのことを考える時はこんな感じです。


(ピリピ1章3-5節)

3,私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。

4,あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、

5,あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。


みなさん、教会の仲間のことを思い出す時、どんな気持ちになりますか?

パウロが思い出しているのは、彼らの欠点を思い出しているのでなく、彼らがイエス様に心を向けていること、神様に対してだけでなく、全てのクリスチャンの仲間たち対して愛していること

口だけではない愛の実践を聞いて、思い出して、毎日感謝して賛美しています。その愛は全部神様から与えられた恵みです。神様の愛と恵みがピレモンに現れていることを考えるたびに嬉しくなり、感謝の祈りをしています。


(5-7節)

5,あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いているからです。

6,私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。

7,私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです。


例えばこんな感じです。

「神様ありがとうございます。ピレモンがイエス様を愛して、仲間たちを愛していることを聞きました。これ全部神様の恵みです。あのことも聞きました。自分も生活も苦しかったのに、イエス様から力をいただいて、あの人を助けたって聞きました。ありがとうございます。」


「神様、あの泥棒が変えられて、今はやり直したいと思ってちゃんと仕事をしてるそうです。嬉しいです」


ここに教会の力と明るさがあります。獄中にいても明るさがあります。パウロは文字通り囚人として獄中にいますが(10節、13節)それでも、パウロは喜んでいるし感謝しています。


教会の喜びの源泉は感謝することです。祈りの中心は、感謝を数えることです。お願い事ももちろん大事です。でも基本は神様の恵みを数えて感謝することです。

イエス様が教えてくれた祈りはまず「主のみ名があがめられますように」です。聖書は「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と教えています。(1テサロニケ5.18)

教会の仲間たちがキリストのためにしていることを知ることは、信仰の交わりに力を与えます。


(ピレモンへの手紙 1章6節)

私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。


「イキイキとしたもの」とは、ギリシャ語でエネルゲースと言います。「エネルギー」の元になった言葉です。教会が生き生きとするかどうか、それは人の欠点を探すか、それとも、神様に愛されて神様のためにしていることを感謝するかどうかです。


●なぜ他の人がキリストのためにしていることを知ることがエネルギーとなるか?


神様は見えません。神様の御言葉はあるけど、僕らは実際にキリストを手で触れて見ているわけではありません。キリストは、天の座におられます。そして、私たちの内側に住んでおられます。

では、どうしたら具体的に、リアルにキリストを知って体験することができると思いますか?


地上にはキリストの体があります。地上にキリストご自身がおられます。

それは教会です。教会はキリストの体です。一人一人がその器官です。(1コリント12.27)


だから教会につながる一人一人がキリストのためを体を使って、手足を使って、心をつくし、力をつくし、思いを尽くして神様を愛して行動することと、それを知る事はキリストがリアルに生きて働いていることを知ることです。それを見聞きすることがパウロの喜びだし、教会の力となります。



(ピレモンへの手紙 1章5-6節)

5,あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いているからです。

6,私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。


●Kさんのこと


宣教ができない国や村で、拒絶されてもイエス様のことを伝え、心を尽くし力を尽くし、燃え尽きた話をききました。僕はそれを聞いた時、それは彼が働いているのではなく、イエス様が働いておられる、って思いました。

キリストの御霊によって動いているのでなければ、キリストが彼の中にいて、その働きをしているのでなければ、彼はただのおかしな人か、不幸な人です。でも、それを聞いた僕は感動して力を得ます。本当にイエス・キリストは生きておられるし、彼はキリストの器官として用いられている、と感じるし聞いた僕らは感動して力を得ます。


彼は帰国して日本で新しく働いています。

その村に移住するときに、村の偉い人たちから宗教活動しないでくださいと言う条件で、移住が認められたそうです。神社のお祭りに参加するように言われます。彼はどこまでが偶像礼拝か悩みます。

そして、どこまでが文化なのか悩みます。そして、祈ってください、と多くの人にラインします。

宴会では彼は祈りながら、下ネタの歌を、全部、村の人たちへの感謝と励ましの歌に替え歌にしました。


Kさんが必死で、でも喜んで替え歌を宴会で歌っている動画を見ると僕は涙がでてきます。

この人、本気だな、本物だなと思います。まさに、交わりが、生き生きと力のあるものになります。

この人の中にキリストが生きておられる、と思います。キリストは確かにそこにおられます。

まさに、聖書が言うように、私たちがキリストのために働いてることを互いに知ることは、僕らに力を与え、命を与えます。


パウロとこの教会との交わりの話題は仲間が神様に対してこんな愛を表してくれた、あるいは仲間たちにこんなことをしてくれた、です。それは人の手柄でなく、そうさせてくれた神様への感謝であり賛美です。あの人がイエス様のためにこんなことをした、こんな苦労もした、でもイエス様のためだった、それがいつも話の中心にあって、教会の祈りと交わりが生き生きとしたものになっていました。


●教会の交わりが壊れる場合


逆に、教会の交わりが教会が死んだものとなる。その方法もあります。


ローマ人への手紙 3章13~14節

「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。」「彼らの唇の下にはまむしの毒がある。」

「彼らの口は、呪いと苦みに満ちている。」


罪に支配された私たちの口は呪いを吐きます。人の欠点や罪を話題にすることは肉の欲から出たものです。神様の御霊は「人をねたみません」「人がした悪を心に留めず」と書いてあります。(1コリント12.4)人の悪口は悪魔と悪霊のエサだし、教会を仲間のクリスチャンたちの力を奪うことです。


●食べたものが体を作ります。


よく食べ物が自分を作るって言います。体に悪いものを食べていると体を壊します。良いものを食べて体を動かすと健康になると言います。


同じように、何を見て、何を心に入れているかが大事です。ゴミを心に入れればゴミが出てきます。

神様の言葉を心にいれ、仲間がしてくれた神様への愛の行いを心に入れていけば生き生きとした力が与えられます。


普段どんなことを考えてますか?普段、どんな祈りをしていますか?そのまま自分の人生になります。

神様の言葉を心にいれ、仲間の愛の行動を仲間がしてくれた恵みを心に入れ、体を動かすのと同じように、自分もできることから神様のために、イエス様を愛するために、動く時、僕らの生き方は喜びと感謝に溢れてきます。周りの人たちにも力を与えます。


●逃亡者が変えられた恵み


イエス様の弟子のパウロと言う人は、約2年間ローマで監禁されて獄中にいました。牢屋に入ると、いろんな国で捕まった人たちが子集められてくるんですね。そして相部屋になった人にオネシモと言う人がいます。


相部屋になったので、いろいろ身の上話を聞きます。どこ出身?なんで捕まったの?とか聞きます。

そのうちに、オネシモは逃げてきた逃亡奴隷だってことがわかってきたんですね。もしかすると、主人のお金を盗んで逃亡したかもしれません。はっきりは書いていません。


当時の奴隷と言うのは、主人の所有財産ですから、もちろん逃げることはできません。

聞いてるうちに知り合いのピレモンの家から逃げてきた、ということがわかるんです。

ピレモンはパウロの戦友、兄弟、家族です。もともとパウロが伝えてクリスチャンになった人です。

なんと、ピレモンの家から逃げてきた奴隷でした。


オネシモから見るとこんな感じです。逃げて捕まって牢屋に入れられて言ってみたら、相部屋にパウロと言うキリスト教の老人がいました。その人が言います。

神様あなたのこと愛してます。あなた受け入れたいと思っています。でもあなたには罪があります。その罪のためにイエス様が十字架で死んで赦してくださいました。イエスが復活して今も生きています。このイエス様は神様です。これを信じる人は赦されます。オネシモ、君は神様に愛されている。やり直せる。信じてほしい。


のオネシモという人は、その話を聞いて信じます。信じます。そして彼は新しくなりました。


やがてオネシモが釈放される時が近づきます。これからどうするの?

彼はいくところがありません。でも、ピレモンさんには謝りたいです。お金も返したいです。


それで、パウロは手紙を書いています。

君の所から逃げてきたこの奴隷オネシモを赦し、もう一回受け入れてくれとお願いする手紙です。


オネシモは変えられた、と伝えています。

まさに、イエス様が生きておられる証です。


確かにひどい人だった。何か損害をかけた奴隷だった可能性も書いています。確かにみんなに迷惑かけたけど、イエス様が全部赦してくださったから受け入れて欲しい。過去がどうあっても受け入れてほしい、加害者でなく、損害を与えた人でなく、赦されたものとして、新しくなった兄弟として受け入れて欲しい、と言う願いです。イエス様の愛がここに現れているといえます。

もう、奴隷だとか、逃亡者でなく、このオネシモのことをパウロは我が子だとと言います。


(10節)

獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。


パウロは彼のことを自分自身の心そのもの、私自身だって言っています。


(12)

そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。


(17)

ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください。



もう奴隷ではなく、パウロの息子であり、私自身だ、と言います。ものすごい愛です。

これが神様の愛です。みなさんも同じく言われています。神様の子供です。愛する子です。イエス様の心そのものです。だから、過去がどうであっても赦しあいなさい、受け入れあったほしい、って言うんですね。イエス様が十字架で命を捨てて愛し赦し、受け入れてくださったからです


●イエス様の愛の表れ


まるでイエス様自身が頭を下げて懇願してくださってるかのようです。昔ひどかったけど、でも今は自分の心そのものです。私の子供です。愛するものです。受け入れてやってくださいって今日も言ってくださっているみたいです。


それが私たちこの教会の交わり中で現れていくんです。確かにまた失敗するかもしれない。でも受け入れてやってください。


(ピレモンへの手紙 1章18~19節)

もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。

私パウロが自分の手で、「私が償います」と書いています。あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。


イエス様がその負債を全部引き受けてくださいました。イエス様が血を流してその責任を負ってくださいました。同じように、パウロも彼の負債は私が償います、と言っています。イエス様の愛がパウロに表れています。


また、お願いされているピレモンもパウロに赦された過去があるし、負債を免除された経験があるみたいです。


パウロは嫌味でなく言っています。「あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。」(19節)言っちゃってますが、嫌味でなく、赦しあうことを実践してほしい、と言う願いです。


これはまさにイエス様のなさったことです。私たちが支払うべき罪の代償を、神の怒りをイエス様が引き受けて私が支払ってくださいました。


神様、どうぞ彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているかわからないんです。と祈ってくださいました。その罪の責任を私が支払います。と引き受けてくださいました。

イエス様が私たちのやらかしたすべての責任をかばってくださっています。今日もそうです。


だから、パウロもオネシモの過去の負債を私が償います、引き受けます、と言っています。

今も神様は教会の中にわざわざ、弱いところを与え、問題を与えておられます。それは、弱い人を配慮し、一緒に苦しむように、一緒にその弱さを分かち合うようにしておられるからです。


この手紙はイエス様の愛が表れています。

まず、イエス様が愛して赦してくださったから、だから今度は互いに赦し愛し合いなさいっておっしゃる。そのイエス様の愛が表れていると思います。


問題が問題なのではなく、問題に愛と忍耐を持って犠牲を払って互いに支えることが永遠に価値のあることだからです。価値のあることはイエス様と同じ心になって犠牲を払って愛し合うことです。それは永遠に無くならない価値のあることです。


宝は天に蓄えます。天で喜ばれるために、地上では歓迎されないはずの問題を歓迎し、トラブルは嫌だけど愛して取り組みます。もし、自分がそれで消耗し、傷つくことがあっても天では喜ばれています。

神様のためにすることを分かち合いましょう。それは力となります。生き生きとした交わりとは、イエス様の恵み、イエス様の愛を共有し、苦しみも喜びも一緒に行動していくことです。


教会の交わりが、イエス様の愛と赦しを表す交わりでありますように。

教会の交わりが、イエス様の愛と赦しに感謝し、神様がしてくださった恵を共有する生き生きとした交わり、祈りになりますように。



0 件のコメント:

コメントを投稿