ホセア6章
神様はイスラエル人たちのことを結婚相手のように言っています。「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。」(イザヤ書54章5節)「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」(イザヤ書62章5節)「わたしが、あなたがたの夫であるからだ。」(エレミヤ書3章14節)イエス様と教会も結婚しているようです。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エペソ人への手紙5章31~32節)だから、神様との関係がおかしくなることを、聖書は結婚がおかしくなることのように書いています。
聖書の中で「神を知る」という表現は、単に情報を知っている、ではなくて、結婚みたいに親密で深い関係に入ることです。ホセア書2章20節で神様は「真実をもって、あなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知る。」と言われます。ここでも、まるで結婚です。「あなたは主を知る」とは男女が心も体も相手にささげるような愛の関係のことです。それが神様を「知る」です。ホセア6章はそれを求めよう、と言います。
(3節)
私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。
(6節)
わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。
神様が求めているのは、表面的な儀式とかルールを守ることではなくて、心から愛し、心から行動することです。ホセア書では神様とイスラエルを夫婦のように書きかつイスラエルは浮気(偶像礼拝)をしてることが書かれています。
彼らは浮気をしながらもいけにえをささげたり、宗教的な儀式をやって「神とつながってる気」になっていたようです。
イエス様も同じことをおっしゃっています。安息日ルールを守ることに必死になっている学者たちには『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』を引用します。(マタイ12.7)収税人や罪人たちと食事をすることに文句をつける人たちにも『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』です。(マタイ9.13)イエス様はホセア書6章6節を2回も引用しています。
神様を「知る」とは、男女が一つになるような深くて親密な関係です。求めてるのは「儀式」とか「ルール厳守」ではなく、男女が互いに慕い求め、喜び合うような真実の愛です。僕らにも問われています。教会で集まるや祈ることは大事だけど、それが「神様への愛とか喜び」から出たものかどうか、です。
神様との愛の関係を求めましょう。まるで宝物を掘り出すみたいに探し、求めましょう。
(箴言2.4-5)
銀のように、これを探し、隠された宝のように探り出すなら、
そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる。
教会に集まって礼拝し、クリスチャンっぽいことをすれば神様が喜んでくれるって思うのは誤解です。夫が「いい夫」っぽいことをすれば妻は喜ぶ、というのも誤解です。アモス5章は「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときの香りも、わたしはかぎたくない。たとえ、あなたがたが、全焼のささげ物や穀物のささげ物をわたしに献げても、わたしはこれらを受け入れない。肥えた家畜の交わりのいけにえを献げても、わたしは目を留めない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。」とさえ言われています。(アモス5.21-23)
愛し合う男女のように、心から喜び合い慕い求め合う男女のように、神様がまず僕らを愛し喜んでくださっています。今度は僕らの番です。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」(3)ハレルヤ!
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