2022年12月26日月曜日

使徒24.27-25.12

 人を恐れること=支配者の顔色を伺うことだと聖書は表現します。(箴言29:25-26) 支配者は目上の人とは限りません。指導者が民衆に気に入られたがり、民衆の顔色を伺い、民衆を恐れて自分の発言や行動を決めることもあります。総督フェリクスは自分が支配する民衆の機嫌を取ろうとしてパウロ監禁しておきました。


(24.27)

フェリクスはユダヤ人たちの機嫌を取ろうとして、パウロを監禁したままにしておいた。


その次に総督になったフェストゥスもまた、ユダヤ人たちの機嫌を取ろうとします。

ユダヤ人の指導者たちがパウロをエルサレムに連れてきて裁判をやって欲しい、と願った時にその要求は断りましたが、それでもユダヤ人たちに嫌われないようにフェストゥスはすぐにカイサリヤでパウロの裁判をします。


(1-3)

フェストゥスは、属州に到着すると、三日後にカイサリアからエルサレムに上った。

すると、祭司長たちとユダヤ人のおもだった者たちが、パウロのことを告訴した。

そして、パウロの件で自分たちに好意を示し、彼をエルサレムに呼び寄せていただきたいと、フェストゥスに懇願した。待ち伏せして、途中でパウロを殺そうとしていたのである。


(6-7)

フェストゥスは、彼らのところに八日か十日ほど滞在しただけで、カイサリアに下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロの出廷を命じた。

パウロが現れると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちは彼を取り囲んで立ち、多くの重い罪状を申し立てた。しかし、それを立証することはできなかった。


ユダヤ人たちの訴えは証拠がなくて、パウロを有罪にできることは何もありませんでした。それでも彼はユダヤ人たちとの関係を壊したくないし、「機嫌を取ろうと」パウロをエルサレムに連れて行って裁判をやり直そうか、と提案します。


(9)

ところが、ユダヤ人たちの機嫌を取ろうとしたフェストゥスは、パウロに向かって、「おまえはエルサレムに上り、そこでこれらの件について、私の前で裁判を受けることを望むか」と尋ねた。


フェストゥスが求めているものは民衆に気に入れられ、支持されることでした。ユダヤ人たちを恐れていると言えます。


(箴言 29:25-26)

人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。


一方、パウロの願いは人からどう見られるかではなく、心の奥まで見ておられる神様に喜ばれることです彼にとっては人の裁判や人からの評価は小さなことでした。彼は言います。


(1コリント4:3-5)

しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。(…中略…)主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです


自己チェックしてみましょう。僕らは何を恐れ何を優先して意思決定をしているでしょうか。人に良く思われることでしょうか。それとも心の奥まで見ておられる神様の前できよくあることでしょうか。

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