ソロモンが造った神殿(宮)は、神様の家であり、神様の所有であり、神様の権威の下にある場所でした。神様の目が注がれ、神様の心がいつもそこにある場所です。そこには神様の「名」が置かれています。神様の名前がついた100パーセント神様の場所です。神様のものになることを「聖別」と言います。
(3)
主は彼に言われた。「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目と心は、いつもそこにある。
神殿(宮)の中心は建物ではなく、契約のことばでした。奥の至聖所には「契約の箱」があり、その中には神様が与えてくださったことばが入っていました。聖書によれば僕らクリスチャンの体も教会も神様の神殿(宮)です。(1コリント 6:19、エペソ2:21-22)僕らに神様の目と心がいつも注がれています。僕らは神様のものとして聖別されました。僕らには神様の名前が付けられています。そして、僕らの心の中心にあるのは神様から与えられたみことばです。僕らと神様の心が一つになっているなら、神様の祝福は揺るぎません。神様の願った通りの僕らになります。そのように神様はソロモンにもおっしゃいました。
(4-5節)
もしあなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正直さをもってわたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことすべてをそのまま実行し、わたしの掟と定めを守るなら、
わたしが、あなたの父ダビデに『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれることはない』と約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上にとこしえに立たせよう。
「神様の名」が置かれているはずの神殿であっても、人々の心が神様から離れて偶像に向かっていくなら、神様はその神殿を投げ捨てる、とおっしゃいます。形だけになった神殿は意味がないからです。神殿が廃墟となるだけでなく、イスラエル人たちが笑い者になっていきます。
(6-9節)
もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしに背を向けて離れ、あなたがたの前に置いたわたしの命令とわたしの掟を守らずに、行ってほかの神々に仕え、それを拝むなら、
わたしは彼らに与えた地の面からイスラエルを断ち切り、わたしがわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げ捨てる。イスラエルは、すべての民の間で物笑いの種となり、嘲りの的となる。
この宮は廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな驚き恐れてささやき、『何のために、主はこの地とこの宮に、このような仕打ちをされたのだろう』と言う。
人々は、『彼らは、エジプトの地から自分たちの先祖を導き出した彼らの神、主を捨ててほかの神々に頼り、それを拝み、それに仕えた。そのため主はこのすべてのわざわいを彼らに下されたのだ』と言う。」
実際、ソロモンは晩年になって神様から心が離れて行き、国は分裂し祝福を失って行きました。(11章)
僕らは神様の神殿(宮)です。僕らの中心は神様のみことばです。僕らには神様の名前が付けられているし、100パーセント神様のもの、聖別されたものです。僕らの中心はみことばです。神様の願いと僕らの心が一つになっていることが一番大事です。もし、形だけになり、実際は他のものを慕っているなら、虚しい廃墟となって行きます。
罪のない人はいませんが、大事なことは、日々神様から心が離れてずれていくことを認めて告白し、立ち返ることです。どんなに痛い目にあっても罪を認めて立ち返るなら赦されます。もう一度回復します。(8章)僕らは神様のものです。中心は神様のことばです。今日も自分がズレていることを認めましょう。今日も立ち返り、祝福される日でありますように。
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