2023年1月18日水曜日

レビ22.1-16

 僕らは神様のために献金します。「神様のため」ですが実際はそのお金が牧師や宣教師やスタッフの生活費として用いられる部分があります。これは、レビ記の時代も同じで、ささげられた小麦粉や油、肉などが祭司たちや働き人にも与えられ、彼らの食べ物となることが聖書に定められています。神様にささげられたものが働き人のものになり、神様への聖なるささげものを神様と一緒に共有することになります。だから「慎重に扱え」と書かれています。それを受ける人も「聖なるもの」(神様のもの)である必要があります。


(1-3節)

主はモーセにこう告げられた。

「アロンとその子らに告げよ。イスラエルの子らの聖なるものは慎重に扱え。わたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために聖別したものである。わたしは主である。

彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエルの子らが主に対して聖別した聖なるものに、汚れたままで近づくなら、その人はわたしの前から断ち切られる。わたしは主である。


神様にささげられたものを食べる祭司は罪や汚れから離れる必要がありました。聖なる神様と一緒に共有するからです。でも、人間なので完璧ではいられません。もしも汚れてしまったならきよめられる必要があります。


(4-7節)

アロンの子孫のうち、ツァラアトに冒された者、または漏出のある者はみな、きよくなるまで聖なるものを食べてはならない。また汚れている者、精を漏らす者、

あるいはすべて人を汚す群がるものに触れる者、または、いかなる汚れであれ人を汚れさせる人間に触れる者もそうである。

これに触れた者は夕方まで汚れる。その人は、からだに水を浴びずに聖なるものを食べてはならない。

しかし、日が沈めば彼はきよくなり、その後で、聖なるものを食べることが許される。それは彼の食物だからである。


神様にささげられた聖なるものを受け取ったり取り扱ったり食べたりする人は聖なる人でなければなりません。ささげものの扱いは慎重であるべきです。汚れたことに用いたり、汚れたままで食べたりしないように、自己吟味をして罪をやめ、きよめられる必要があります。


先日、ある教会の会堂の使用規定をいただきました。会堂もまた神様にささげられた聖なるものですなのでその規定には以下を禁ずる、とありました。(1)偶像礼拝に関する行為を行うこと(2)キリスト教信仰の精神に反すること(以下略…)まさに神様が「聖なるものは慎重に扱え。わたしの聖なる名を汚してはならない。」(2節)とおっしゃったことを思い出させる規定です


神様に捧げられたものは神様の聖なるものですその使い方は慎重であるべきです教会で神様のために捧げられた献金の扱いも聖なるものであるべきです。「献金の取り扱いについて、だれからも非難されることがないように」と聖書は言います。(2コリント8.20)神様に捧げられたものは「祭司のみ」が食べることができました。


(10節)

一般の者はだれも、聖なるものを食べてはならない。祭司の居留者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない。


神様に捧げられたものは祭司だけが神様と一緒に共有しました。

そして、新約聖書はイエス様を信じる人は全員祭司だと言います。神様に捧げられた聖なるものを共有しています。


イエス様はパンを弟子たちに与え、「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」とおっしゃいました。僕らはパンを裂き、イエス様の裂かれた体を思い出して、またイエス様が一緒にこの体に住んでくださることを思い出してそれを食べます。僕らは聖なるキリストを共有し、それを受け、それにつながる祭司です。聖書は「もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」と言います。(1コリント11.27-28)僕らの罪はイエス様の十字架によってきよめられ、赦されます。生ゴミのように出てくる罪を僕らま毎日告白して捨てていく必要があります。罪を認めて告白するならどんな罪もきよめられます。(1ヨハネ1.9)イエス様を信じないで、イエス様のものとなっていない人はイエス様を共有することができません。


僕らはイエス様の聖なる体の一部です僕らの全てはイエス様のものです僕らの人生全部は聖なるイエス様と一緒です僕らの全てがイエス様を表すものでありますように!

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