聖書には「旧約」と「新約」があります。今日の箇所はその両方について説明してくれています。「新しい契約」略して「新約」という言葉は旧約聖書の中でここだけに出てきます。
(31-32)
見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。
新約に対して古い契約というのがあります。神様がイスラエルをエジプト(400年間奴隷にされていた)から救い出したときに結んだ契約です。それは神様のことばに聞き従うなら祝福、聞き従わないならのろい、という行いの契約でした。
(申命 11:27-28)
もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。
この契約を結んだ時、人々は「主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います。」と言いました。(主エジプト24.7)でも、彼らには無理で、ことごとく裏切りました。神様は契約通りにのろい、災い、怒りと裁きを下しましたが、それでも神様は愛することはやめません。
(3)
主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。
(20)
エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──主のことば──
神様は契約を守ります。イスラエルは責められ、苦しめられますが、それは神様にとっても苦しみであり、神様はますますイスラエルを思い、はらわたがちぎれるほどに愛さずにはいられない、とおっしゃいます。神様の律法を守る力は人間にはありませんでした。人間は罪深く、行いによって義(正しい)と認められることはありません。
(ローマ3:20)
律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
(エレミヤ17:9)
人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。
いくら決心してもがんばっても人間には罪があり、陰険さがあり、努力では契約を守れないことが明らかになりました。守れないだけでなく「かえって罪の意識が生じる」と言います。(ローマ3.20)それでも神様はあきらめません。古い契約を更新し、新しい契約を与えてくださいました。
(33)
これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
イスラエルには新しい契約が与えられています。この契約はイスラエルだけでなく、イエス様を信じる僕ら日本人(異邦人)にも与えられています。古い契約は「あなたが守れば…あなたが破れば…」というように、人間側の行いによる契約でしたが、新しい契約は「わたし(神様)は、何々をする」と主語が主ご自身です。人間側の行いによりません。これが新約の特徴です。
新しい契約の特徴は、神様の教えが心の板に直接書かれることです。神様の御霊が直接僕らの心の中に教えてくださいます。
(ローマ7:6)
古い文字(古い契約のこと)にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
新しい契約は、僕らが外側からの規則で半強制的に押し付けられるものではなく、内側からこうしたい、ああしたい、と神様の思いを自分の思いとしていきます。だから互いにああせ、こうせ、ということはなくなります。
(34)
彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。
心理学者ウイリアム・ジェイムズの言葉です。
「心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば人生が変わる。」
このように神様が僕らの心をまず変えてくださいます。それによって行動も習慣も人格も変えられて行きます。これが新しい契約です。
そして新しい契約の大きなもう一つの特徴は、「完全な罪の赦し」です。
(34)
わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。
イエス様が僕らの罪のために身代わりに十字架でのろいを受け、僕らは完全に赦され、無罪とされ、神様は「彼らの罪を思い起こさない」と言ってくださいます。イエス様の血は僕らを完全にきよめてくださいます。これが新しい契約です。それをいつも確認するために、イエス様は一緒にパンを裂いて食べ、杯を一緒に飲んで思い出しなさい、と言われました。聖餐式と呼ばれるものです。杯を飲むのは、イエス様の血を思い出すためです。そして、イエス様の死によって赦されている、という新しい契約を思い出し、確認するためのものです。
(1コリント11.26)
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
信じた僕らは聖霊を受けて、新しい契約に入れられています。強制される行いでなく、心に神様のことばが書かれ続け、内側から変えられ途中です。罪は赦されました。まだ完成していないけど、でも、イエス様に似たものと変えられます。新しい契約に入っています。赦されています。心に神様のことばが書き記されています。感謝しましょう!
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