なんで自分にこんな不幸が…と思うことがあります。たとえそれが自分のせいであったとしても、神様は見放したのでも見捨てたのでもありません。イスラエルは自分たちの罪のゆえに苦しみを受け、国を失い、捕囚とされ苦しみました。それでも神様は見放していません。罪の刈り取りはありますが、神様の愛は消えません。
(3-5)
主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び踊る者たちの輪に入る。
再びあなたはサマリアの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植え、その初物を味わう。
預言の通りにイスラエル人たちは70年後に解放されて祖国に帰ってきました。また、この預言は何度も繰り返されていて、イスラエルはAD70年に国を失い、1948年まで世界に散らされたままでした。1900年近く彼らは散らされ国を失っていましたが、それでも神様のみことばは実現し、現在世界中からイスラエル人たちが帰国し続けています。
(8-10)
見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中には、目の見えない者も足の萎えた者も、身ごもった女も臨月を迎えた女も、ともにいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。
彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに、つまずくことのない平らな道に導く。まことに、わたしはイスラエルには父であり、エフライムはわたしの長子である。」
諸国の民よ、主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせよ。「イスラエルを散らした方がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守られる」と。
神様の預言は実現します。みことばの通りに完全に満ち足りて喜びと平安と祝福だけになるのはイエス様がもう一度エルサレムに再臨された時です。
(12-14)
彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、主が与える良きものに、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油、羊の子、牛の子に喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない。
そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも、ともに楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。祭司のたましいを髄で潤す。わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。──主のことば。」
イスラエルの歴史は苦しみと不幸の歴史です。イエス様が生まれた時にはベツレヘムで2歳以下の赤ちゃんが皆殺しにされました。マタイの福音書によると、その悲しみと苦しみもまた700年ほど前のこのエレミヤによる預言の実現でした。
(マタイ2:16-18)
その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」
イスラエルの歴史は虐待と殺戮の歴史です。ですが、全ては回復することが約束されています。そして、イスラエルの苦しみは神様の苦しみです。誰よりも神様ご自身がはらわたがちぎれる思いで愛し、憐れんでいてくださいました。
(20)
エフライムは(イスラエルの一つの部族の名前、イスラエル全体のことも表しています)、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──主のことば──
僕らもなんでこんな不幸が…と思うことがあります。それでも神様は見放したのでも見捨てたのでもありません。イスラエルが神様にとって大切な子、喜びの子であるように、同じようにイエス様を信じる僕らも神様にとって喜びの子、大切な子です。はらわたがちぎれるほどに憐れみ、愛していてくださいます。今日も神様は僕らを喜んでいてくださっています。ハレルヤ!
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