2023年1月17日火曜日

マラキ3章

 ●試練は神様のところに帰るためのもの


人間は本来病気はなく、戦争もなく、経済的な不安もなく、超ド級の安心感の中を歩むように作られています。…ですが、それを失っているのが現実です。聖書は、人間が罪を犯し、神様の言葉よりも自分の判断を信じるようになってから「地は呪われてしまった」と言います。(創世記3.17)そして、この世の終わりにはますます病気や戦争、飢饉の試練が来ると聖書は言います。

そのようなことが起こることは聖書に何度も書かれているので、その時に神様が僕らに何をおっしゃっているか従うチャンスだし、試練の中でも平安と希望を持つことができる、と教えています。


僕らがやがて天の御国で神様と直接お会いする時には、感謝と喜びと賛美と平安しかありません。その天の喜びを、神様は地上の試練の人生の中でも体験させてくれようとしてくださっています。


僕らは、旧約聖書に書かれたイスラエルの歴史を読むことで、神様がどんな方かわかります。又、神様に愛されるイスラエルがどんなに神様を軽んじる人たちだったかもわかります。彼らは祝福と喜びの人たちだったはずですにもかかわらず、何度も自分から不安と恐れの道を選んでいました。


マラキ3章はサンドイッチの真ん中にあるような箇所です堕落した様子の2章、最終的なさばきの4章の間に挟まれているのが3章ですそして3章は「神様はそれでも見捨てない」という箇所です神様をバカにするまで堕落した人たちが、それでも捨てられず、きよめられ、祝福を取り戻すための方法が書かれています。聖書は脅しの本でなく、祝福と希望を回復させるための本です


(2-4)

だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。

この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。彼らは主にとって、義によるささげ物を献げる者となる。

ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主を喜ばせる。


まず、人間は神様のさばきには誰も耐えられません。一瞬で滅ぼし尽くすことができる神様なのに、忍耐してくださり、真っ黒な彼らを少しずつ白くしてくださり、純粋にしてくださると書かれています。2節から4節は、回復の約束です


金や銀は高熱の火によって不純物がわかり、それを職人が取り除いて行くそうです

同じように、火のような試練に会うことによって、人間が今まで隠していた罪が浮き出てきて、明らかになって、それを神様が取り除いて行って純化してくださいます。私たちが苦しむとき、自分の醜さが露わになってきます。それは僕らがその罪を認めて告白して捨てていくためのものです


汚い布をキレイにしてくださる方のようです。当時、薪を燃やした後の灰は、水を混ぜて洗剤がわりにしていたそうです。それが灰汁ですそれを使って布を打ち叩いて洗ったそうです。そのように、試練に打ち叩かれるようにしてきよめてくださいます。

彼らはもう一度神様に礼拝し、神様を喜ばせる人に戻っていきます。「昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主を喜ばせる。」とあります。(4)


神様に敵対し、呪われ、見捨てられて殺されてもおかしくないのに、それでも、神様は見捨てず、ヤコブの子どもたち(イスラエル人たちを)に帰ってきなさい、と言います。「あなた方は絶え果てることはない」(6)と言ってくださいます。ヒドイ人たちなのに、です


(6-7節)

主であるわたしは変わることがない。そのため、ヤコブの子らよ、あなたがたは絶え果てることはない。

あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。


彼らの神様への反抗は相当ひどいものでした。「神様に仕えるのは無駄だ」「何の得にもならない」「悪を行っても大丈夫」「高ぶる人のほうが幸せ」と言い切っていました。


(13-14)

あなたがたのことばは、わたしに対して度を越している。──主は言われる──あなたがたは言う。『私たちが何と言ったというのですか』と。あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。

今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる』と。」


神様に反抗し、ひどい暴言を吐き、実際は彼らは呪いを選び、食糧不足や病気や不安の中を歩んでいました。神様に反抗して良かったことはありませんでした。それでも彼らは神様に逆らい続けます。彼らは悪や不正が当たり前の生活をしていたので、何が良くて悪いのかがよくわからなくなっていました。でも、苦しんでいるのは事実でした。神様はそれでも帰ってきなさい、と言います。帰ってくる人を憐れみ、宝とする、と言ってくださっています。


(17-18)

「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の主は言われる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。」


●神様に帰るための具体的な方法ーささげもの


長い年月神様をバカにし、軽んじて反抗していると、どうやって神様に戻ればいいかわかりません。

彼らは言います。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。(6)そんな彼らに神様は教えてくださいます。


祝福を失い、一生懸命働いても収穫がなく、収穫しようと思ったらイナゴやバッタがそれを食い尽くしてしまうような状況は(11)、あなた方が神様のものを盗んでいるからだ、と教えてくださいます。


(8-12節)

人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。

あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。

わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は言われる──

すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。──万軍の主は言われる。


食糧危機は自分から呪いを招いたことでした。神様に感謝もせず、収穫は神様からのものだと感謝も敬意もなく、いらないものだけを神様に形ばかり捧げていたようです一章を読むと、彼らは礼拝とか神様にささげるものは「わずらわしい」「もったいない」と思っていたことが書かれています。


(1.13-14)

また、『見よ、なんと煩わしいことか』と言って、それに蔑みのことばを吐いている。──万軍の主は言われる──なたがたは、かすめたもの、足の萎えたもの、病気のものを連れて来て、ささげ物として献げている。わたしが、それをあなたがたの手から取って、受け入れるだろうか。──主は言われる──自分の群れのうちに雄がいて、これを献げると誓いながら、損傷のあるものを主に献げるような、ずるい者はのろわれる。


彼らは不用品や廃棄物のようないらないものを、神様にめんどくさそうにささげていました。神様のせいで、神様に礼拝するせいでお金が減ると思っていました。逆に、良いものは全部自分のためと思っていたようです。ところが、その結果、彼らの収入は減って行き、食糧危機、バッタやイナゴの被害、不作がきていたようです


そんな彼らを神様は見放さず、初心者のようにやってみなさい、試して見なさい、とおっしゃいます。天の祝福が地上でも体験できるかどうか、試して見なさい、と。


(10-12)

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。

わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は言われる──

すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。──万軍の主は言われる。


東栄教会では、このみことばが元になって、教会としても収入の1/10は他の教会とか、他の団体の働きのために献金する、という良い伝統がありました。ところが数年前から、教会の会計が赤字になってきて、それで対外献金、教会から他の働きにささげるお金をぐっと減らしました。そうすると、節約したから足りたでしょうか?結果、ますます足りなくなってきて、今回、執事会で話し合って、もう一度このみことばに戻って、素晴らしい伝統に帰ろうということで、お金はないけど教会の収入の10パーセントは他の働きや教会に献金することを提案しています。神様は「こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。」とおっしゃるので、教会の会計が今後どうなるのか、楽しみです


神様を敬わず、与えられているものを神様のものでなく、まるで自分だけのもの、と思うのは傲慢です全ての良いものは神様のものだし、収入収穫は全部神様が与えてくださっているものですそれを表すのが献金です。10パーセントは神様のもの、90パーセントは自分のもの、とは聖書は教えていなくて、全部神様が与え、預けてくださった神様のものだ、と聖書全体は言っています。命も健康も、能力も、社会や家庭での役目も、全部神様が与え、預けてくれたものですそれをどのように使うかは、任されています。僕らの自由な裁量に委ねられていいます。全部神様のものだけど、全部任せてくださっていて、いくら献金するか自由です。ただ、その目安として初心者のために、試して見なさい、という意味で10パーセント、と書かれています。まずは、10パーセントで試して見なさい、と聖書は言います。神様にささげて貧乏になった人とか、神様を恨んでいる人は僕は見たことがないです与える人は与えられます。受けるより与えるほうが幸いです


(1コリント 10:26)

地とそれに満ちているものは、主のものだからです


(2コリント9.6-9)

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です


●まとめ


試練はチャンスです試練はその中で神様に戻るための神様からのメッセージです

どんなに神様のことがわからなくなっても、真っ黒になっても、神様は見捨てないで、祝福を回復させてくださるから、帰ってきなさい、とおっしゃいます。


7

わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主は言われる──


具体的には、献金でまず神様を信頼することを試して見なさい、と聖書は教えています。

不安なこと、心配なことに囲まれていますが、今こそ人の教えでなく、神様のみことばに戻り、平安と喜びと希望と祝福が、死んでもなくならない内側から溢れる聖霊がくださる平安を皆さんが取り戻しますように。


0 件のコメント:

コメントを投稿