僕らは「死」を避けようとします。縁起が悪いので「4」の数字を避けたりします。なるべく考えないようにするのですが、残念ながら僕らは100パーセント死にます。「死」は縁起が悪いので高齢者に挨拶するとき、「長生きしてくださいね」みたいなことしか言えません。ちゃんと「死」に向き合いずらいからです。でも、聖書は「死」を考えて生きるようにと教えています。そして、死は僕らの小ささ、無力さを教えてくれます。
(1-2節)
名声は良い香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。
悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。
知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。
神様はもともとは人間が死ぬようには造られませんでした。ですが、僕らの先祖アダムは自分から進んで命である神様との断絶を選びました。命である神様に背き、神様から離れることは死ぬことです。罪とは神様から離れることです。
(ローマ 5:12)
ひとりの人(アダム)によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった…
死は神様の世界から見ると異常です。100パーセントの人が死ぬという僕らの世界は異常な世界です。本当は死ぬように造られていないからです。僕らは「死」に向き合う必要があります。楽しいパーティもいいけど、人生は必ず終わります。だから、聖書は「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」と言います。(2節)
僕ら人間は人間の力をはるかに超えている神様の存在について考える心があります。でも、多くの人はそれに向き合わず、とりあえず今日も笑って楽しく生きればそれでオッケー、と思っているようです。聖書はそれは「愚かな者」と言います。
(4-6節)
知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。
知恵のある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。
愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。これもまた空しい。
死と神様の裁きを無視して、この世の楽しみだけしか考えない人は「愚かな者」その笑いは「むなしい」と聖書は言います。
イエス様はちゃんと死と向き合ってくれた神様です。そして死を超える命を与えてくださる方です。
地上に来てくださり、苦しみや悲しみを経験してくださり、そして、神様の裁きである死を経験してくださいました。
人からも神様からも捨てられる苦しみを経験してくださり、その上で、復活し、信じる人全員に死を超える命を与えてくださいます。イエス様は復活しました。そして、それを信じる人、受け入れる人は同じように死を超えて復活する永遠の命を与えてくださいます。
(ローマ 6:8-9)
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
地上の僕らの人生はイエス様と一緒に苦しみます。そして、一度死にます。…ですが、その先には、イエス様と同じように復活してもやは死ぬことはない永遠の喜びと栄光が用意されています。
終わりは僕らの人生の初めよりもずっと素晴らしい者です。死の向こうにある栄光は素晴らしいです。だから、地上での笑いや楽しみだけに逃げるのではなく、ちゃんと苦しみや死を受け、忍耐することができます。その先は素晴らしい終わりが待っているからです。
(8)
事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。
この神様を信頼し、恐れ、従うのは「知恵」です。神様がくださる言葉を信じ、従う人は知恵と力を得ます。
(19)
知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。
今日も僕らがイエス様を信頼し、地上の人生の楽しみよりも、死後にある栄光と希望を目指して生きますように。「はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白して」歩めますように。(ヘブル11.13)
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