2023年2月6日月曜日

マタイ5.1-10

 自分ではどうしようもない心の貧しさ、悲しみ、飢え渇きのある人は「幸いです(祝福されています!)」とイエス様は言い切ります。

この時、イエス様は病気の人、苦しむ人、絶望している人たちと交わり、癒し、彼らをご覧になっていました。その苦しむ人たちを見て言われたのがこれらの言葉です。(1節)


僕らは悲しくないように、貧しくないように、恥をかかないようにとがんばります。ところがイエス様は全く正反対のことを言われました。

自分の心が貧しく、弱く、足りないことを知った人だけが本当に神様を求めます。「天の御国」とは神様のご支配のことです。しかも、愛と恵みと赦しに満ちているご世界です


(3-4節)

「心の貧しい者は幸いです天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いですその人たちは慰められるからです


逆に、「自分は貧しくない」「私はできる」「わかってる」という人は神様を本気で求めたり信じたりしません。そのような人のことを「哀れな人たち」と聖書は言います。


(黙示録3:17)

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。


自分から何も出てこない自覚のある人だけが神様を求めゆだねます。そして神様は本当に答えてくださいます。「天の御国(神様のご支配)はその人たちのものだ」と言ってくださいます。悲しむ人は「慰められ」ます。慰めはイエス様が弁護してくださり、寄り添ってくださり、引き寄せてくださる、という意味です


イエス様はすべての悲しみを経験され、人に捨てられ、神に捨てられ十字架の上で死んでさいました。そして、信じる僕らも「キリストの苦しみにあずかる」とも言われています。(1ペテロ2-4章)イエス様だけが苦しみを共有してくだり本物の慰めを与えてくださいます。


僕らの本音は「力を持ちたい、思い通りにしたい」です。でも、高ぶってる時には何も得ません。思い通りになっても、神様から出たのでないなら何も残らないし、神様からのものではありません。祝福は力とか根性で手に入れるものではありません。


まるで子どもが父親の財産をもらうように、神様からは祝福を与えると聖書は言います。そのことを「地を受け継ぐ」と表現します。そのように良いものが与えられる人は「柔和な者」です柔和とは自分の誇りや栄光を失っている状態です。ただ、見捨てることのない神様にすがる人です


(5節)

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです


柔和な者のお手本はイエス様です全ての権威と栄光を持っておられる方なのに、全てを手放し、十字架の処刑にも従われました。そのイエス様こそ、復活して全ての権威を持っておられるかたです。力を失う時こそ、神様の力だけが明らかになり、100パーセント神様からのプレゼントとしての祝福が与えられます。イエス様は復活して全てを持っておられます。そしてこのイエス様に信頼する僕らも神様からの財産をいただく子どもです


(ローマ 8:17)

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。


イエス様は繰り返し、「自分から良いものが出ない」と自覚してる人の祝福をおっしゃいます。


(6節)

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです


飢え渇くことは苦しくてたまらないことです

義とは神様との交わり、神様との正しい関係です本当は神様と親しくしたいのに、それができずにもがく人のことを、イエス様は「幸いです祝福されています!)」とおっしゃいます。罪はやめたいのにやめられず、人の悪口も妬みも出てきてしまい、姦淫の罪はやめられずに苦しみ渇く人こそ幸いですその人は心から神様を求めています。飢え渇いて死にそうなほどに神様を求める人は幸いです満足している人ではなく、自分の罪にがっかりし、神様を求める人は満たされます。その人は神様から義と認められます。


満たされるのは次のような人ではありません。


(ルカ18:11-12)

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』


この人は満足して飢え渇いていません。イエス様は義に満たされる人は次のような人だとおっしゃいました


(ルカ18:13-14)

取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」


自分の惨めさ、恥、罪を知っている人こそ、神様の赦しと恵みの大きさを知ります。そして、どれだけ自分が何回赦されてきたのか、何回神様が忍耐してくださったのかを知ります。その人は隣人にも同じように赦したい、忍耐したい、憐れみたい、愛したいと思うようになります。憐れみ深い人とは、自分の惨めさと神様の愛を知った人です


(7節)

あわれみ深い者は幸いですその人たちはあわれみを受けるからです


見ないふりをして強がるのではなく、自分の弱さや恥や失敗を素直に正直に認めるなら、神様と出会うことができます。蓋をしてごまかすのでなく、逃げるのでもなく、正直に告白する人こそ、神様の愛を知ります。その人は祝福された人です


(8節)

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです


「心のきよい者」正直に認める人です。そもそも、神様はもう全部見ておられるし、知っておられます。だのに僕らはごまかして、表面だけ「大丈夫なふり」をしがちです


自分の悲しみや貧しさにフタをするなら、神様との関係にもフタをしてしまいます。逆に、自分の姿を認めるなら、神様と出会うことができます。罪は、認めて告白するように聖書は教えます。傷付いています、で終わるのでなく、傷つけた加害者をゆるします、という祈りに聖書は導いてくれます。どんなに傷付いても、思い出したくなくても、神様は全部見ておられます。その神様に正直に心を打ち明け、罪を打ち明ける人こそ、神様との本当の交わりを回復する祝福された人です


聖書はやせ我慢を教えていません。悲しみや苦しみを、怒りや妬みを正直に神様に告白するように教えています。その時に、僕らは神様との関係を回復し、平安を与えられます。神様との関係を回復するなら、隣人との関係も回復します。神様に赦していただいた人だけが他人をゆるすことができます。神様にゆるして頂いた人は自分のこともゆるします。神様との平和、自分との平和、隣人との平和は、自分の弱さを正直に認めることからスタートします。それが「心のきよさ」だし、「平和(平安)をつくる」ことです


(9節)

平和をつくる者は幸いですその人たちは神の子どもと呼ばれるからです


今日、がっかりしているなら神様に正直に言いましょう。自力でなく、神様の完璧な支配に身をゆだね、手放しましょう。がっかりすることは悪ではなく、神様を求め祈る機会です生活の全部の領域で神様は良いものを与えようと待っておられます。心貧しい人は幸いです。悲しむ人は幸いです飢え渇く人は幸いです神様は僕らが思う以上の良いものを与えようとしておられます。主こそ僕らの王です。良いものを、祝福を与えようとしておられます。ハレルヤ!

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