2023年2月21日火曜日

マルコの福音書7.24-37

 マルコの福音書7.24-37

イエス様に不可能はありません。イエス様には「これはムリ」ということは一切ありません。問題は僕ら人間がイエス様に対して「これはきっとムリ」と決めつけてあきらめていることです。
ある時、悪霊に取りつかれた娘を持つ母親がイエス様にひれ伏して懇願します。
彼女は異邦人(ユダヤ人じゃない人)です。ユダヤ人は異邦人を見下し、交わることを避けていました。だから、彼女がイエス様に懇願することは、普通は「どうせ無理。自分は異邦人だし、聞いてもらえない」と思う場面です。でも、この母親はあきらめません。
25 汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。
26 この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。
イエス様はまずユダヤ人たちを助け救うことが順番でした。ユダヤ人は神様の大事な子どもです。そして異邦人は「犬」と呼ばれていました。軽蔑的な意味もあります。
27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
この母親はイエス様が自分のことを「小犬」と言ったのを聞いても腹を立てません。自分は願いを聞いてもらえる身分ではありません。それでも、イエス様の恵みの余りでもいいからほしい、と願い続けます。
28 しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
小犬がテーブルから落ちる食べ残しを待っているように、同じようにこの母親は恵みの余りでもいいから欲しい、と待ち望み願いつづけました。イエス様には残り物であっても、彼女にとっては十分な恵みと癒しです。
彼女はイエス様の恵みの大きさを信じています。そして、どんなに小さな恵みでも、ほんの少しのあわれみでも、自分には十分だと思っています。
イエス様はその態度を喜んでくださいました。
29 そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。
小さな恵みであっても十分です、と願いつづけていることを、イエス様は喜んでくださいます。イエス様のほんの小さな恵みは、僕らには大きな大きな恵みです。イエス様が僕らに求めているのは信仰=信頼です。信仰とは「どうせ無理なんでしょ」とは思わないことです。信仰とは「きっと聞いてくださる」と期待して願い続けることです。どんな小さなことでも期待して願いましょう。祈りましょう。求めましょう。主は答えてくださいます。
(新約聖書 ヤコブ 4:2)
あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
(新約聖書 1ヨハネ 5:14-15)
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

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