2024年2月12日月曜日

マタイ16.21-17.8

 マタイ16.21-17.8


どうしたらいいか悩む時、その答えは明白です。神様の答えは、イエス様の言葉に従うことです。


弟子たちはイエスさまの口から残念な計画を聞きました。それは苦しめられ、殺されることでした。(16.21)そして、それは弟子たちにも適用され「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」と言われます。(16.24)イエス様の苦しみと死の話だけでも悲しく暗くなるのに、自分たちにもそれが適用されることを弟子たちは喜べないし消化できなかったと思います。そんな不安と動揺の中にある頃、イエス様は3人の弟子たちにご自分の栄光の姿を見せて励ましてくださいました。



1節から3節)

1,それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

2,すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。

3,そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。



これは「うぁ~、イエスさま、すごいなぁ~」ということだけでなく、受難の先にある栄光を示してくださる励ましでした。モーセとエリヤはこの時「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していた」とあります。(ルカ9.31)弟子たちも聞いていたのは「三日目によみがえらなければならないこと」です。(16.21)これから惨めに捨てられ血だらけで死んでいく姿を見ることになりますが、その先の栄光の姿をあらかじめ表してくださいました。ペテロはその素晴らしさに圧倒されて「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」と言います。(4)「こんなに素晴らしいのだから、ずーっとこのまま居ましょうよ」という気持ちだったと思います。でも忘れてならないのは「まず苦しみと死を通って栄光に入る」ことです。そんな彼らに神様は直接語りかけてくださいます。



5節)

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。




イエス様が神に愛される喜びの子であり、そしてイエス様がすることは全て神様の願いそのものであり、イエス様の教えはすべて神様の喜びであることが示されています。ペテロは最初、イエス様が苦しめられ、殺されて、その後に復活する意味がわかりませんでした。殺されたり、自分を捨てたりすることが良いこととは思えません。ところが神様の喜びの子の教えは自分を捨てることです。自分を捨てるイエス様のことを父なる神様は喜び愛しておられます。献身とは自分を捨てることです。それは神様の喜びです。後でペテロはこれが僕らの模範だ、と手紙を書いています。



(1ペテロ1.20-21)

善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。

このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。



しかも、ペテロはイエス様と一緒に苦しみに参加するなら後で喜び踊る、とさえ書いています。



(1ペテロ4.13)

キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。



神様がイエス様を喜んで愛しておられるように、僕らも愛されています。(ヨハネ15.9)同じ愛で僕らも神様に愛され喜ばれています。自分を捨てる事は神様の喜びです。自分を献げる事は神様の愛に応えることです。


今日も自分の計画を捨てちゃいましょう。今日も自分の思い通りにではなく、神様の思い通りになるように祈りましょう。それこそ神様の喜びです。そしてそれは報いが与えられることです。(16.27)苦しみはありますが、もっと大きな喜びと希望があります。イエス様が栄光の姿を表してくださったように、僕らもイエス様と同じ栄光の姿に変えられます。(2コリ3.18、1ペテロ5.1、1コリ15.48-49など)種は死ななければ発芽しないように、僕らも自分を手放し死ななければ生かされません。(1コリント15.36)


今日も「彼の言うことを聞け」です。(5)今の苦しみは通過点です。手放しましょう。「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29.11)




0 件のコメント:

コメントを投稿