2024年3月25日月曜日

マタイ27.1-10

 マタイ27.1-10


「使えるときには使うけど、会社なんていざとなったら冷たいもんだよ。」昔、先輩に言われました。そしてある程度これが実態だと思います。利用できる時は近づき、そうでないと切ります。祭司長たちはイエス様を殺すためにユダと近づきました。ユダも悪魔に近づき「ユダに、サタンがはいった。」とあります。(ルカ22.3)ところが、その先は冷たいものです。悪魔は誘惑しますが、最後は絶望させます。ユダはイエス様を裏切り死刑にしたことを後悔して、祭司や長老たちにその罪を告白しに行きました。ところが、彼らは突き放します。



(3-4節)

3,そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。

4,「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」

5,そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。



本来、祭司の仕事は罪を犯した人のために祈ることです。祭司はその人が神様に赦されるために身代わりの動物を捧げ、祈り、罪の赦しを宣言します。それが本来の職務です。(レビ記5章、民数記14章など)ところが彼らは完全にそれを放棄し「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」と突き放します。


今、本当に祈ってくださり赦しの宣言をしてくださるのはイエス様です。イエス様こそ大祭司です。殺人をしなくても、心の中で兄弟をさばく者、馬鹿にする者はゲヘナ行きです。(マタイ5:21-23)そのような僕らのために今日も祈ってくださっている大祭司イエス様です。


(1ヨハネ2.1)

私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。


(ヘブル7:25

したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。


(ローマ8:34

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。



「自業自得。」「なんで私が関わらなきゃなんないの。」冷酷な罪人の僕らの姿です。一方、イエス様は今日も一緒に祈ってくださる方です。ご自分の命を捨てて、動物の血ではなくご自分の血によって赦してください、と祈り、赦しの宣言をしてくださっています。罪人のために命を捨てるほどに愛し関わり見捨てないこの方こそ本物の大祭司です。(ヘブル10章)


そのイエス様につながったのが僕らです。イエス様にならって他人の罪をまるで自分のこととして神様に赦しを一緒に祈るのが僕らの役割です。聖書は全てのクリスチャンが祭司だと言います。(1ペテロ2.9、1コリント12.12-13、黙示録5.9-10など)失敗する兄弟姉妹のために祈る役目です。裁くのではなく、縁を切るのでもなく、です。


イエス様が罪を犯す人々のしもべになり、まるで罪人代表のように裁かれ、今日も祈ってくださっています。イエス様とつながった僕らは今日もイエス様と一緒にあの人のこの罪を赦してください、あの人の高ぶりを赦してください、嘘を、ごまかしを、赦してください、と一緒に祈る共同体に参加しました。子どもが万引きしたら親が謝りに行くのと同じです。一緒に謝ります。イエス様が謝ってくださっています。もちろん厳しく懲らしめてくださいます。同時に決して見放さず、見捨てず、愛ゆえに一緒に謝ってくださっています。僕らも一緒に祈りましょう。





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