神のことばに献身することの力と平安 マタイ26.47-56 3/24
●罪と悪魔のことばに献身したユダ
(48節から49節)
イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。
それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。
口づけは愛と尊敬の表現です。相手を尊敬しています。先生、愛しています。というのが当時の口づけです。そんな態度を演じながら、裏ではこんな人は死ねばいいと思っているユダです。
どうしてユダがこんなに悪くなったのか?ユダはいきなりこんなにひどい人になったのではなく、段々悪くなっていたことが聖書によってわかります。
以前から彼はお金を愛し、お金をこっそり盗み続けてました。盗みの甘い蜜をやめられなくなっていたようです。いつもお金の魅力にひきよせられていました。
(ヨハネ12章6節)
彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。
いつから盗みを始めたのか、わかりません。でも最初の一回はあったはずです。お金ほしいな、どうしようかな、取っちゃおうかな、と言う葛藤はあったはず。最初の一回、初めてそこからお金を取った時、書いていないけど、まず彼はずっと欲しいな取ろうかな、と思って、ある日、心の中で、よし盗もう、って決めた日もあったはずです。意外とバレなかったようです。彼は盗むのが普通になっていました。
最初はイエス様に従っていたし、信じていたし期待していたと思います。でも、自分が思い描いたようなヒーローではありませんでした。あのローマ帝国の皇帝カエサルのように、この人がすごい権力者になり、新しい王様になる人だと思っていました。ついて行った自分も偉くなれる、権力者になれると、思ったと思います。弟子たちはいつも誰が偉いか、というのが話題になるし、王権につくときには、わたしたちを右と左につかせてください、とお願いするような弟子たちです。ところが、実際ついて行ったら家のない旅人でした。いつも迫害され、人々から特に当時の特権階級の人たちから攻撃されていました。ユダはいつの間にか、心の中でイエス様をあきらめていたと思います。心の中ではもう見切っていたし、小ばかにしていたかもしれません。でもそれがわからないように、顔では笑って口づけして、先生、と呼んでいました。
ユダはお金を愛することをやめませんでした。神のことばではなく、この世のお金と権力に従っていきました。クリスチャンが、神様を信じると、だんだん神様のことばに従って生きるように成長します。神様のことばに自分を合わせていくように変えられます。
同じように、ユダは最初に心の中で裏切った日から、誘惑のことば自分を合わせていくように変えられました。自分からサタンに近づき続け、ついにサタンに献身したかのようです。最後は「ユダにサタンが入った」と聖書は言います。
(ルカの福音書22:3)
十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。
(ヨハネ13:27)
彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。
最後はユダは完全に悪魔に取りつかれ、コントロールされてしまいました。
自分から自分から罪と悪魔にささげ続けたし、悪魔もまた彼を選び、悪魔のからだの一部のようになりました。クリスチャンが毎日神様の言葉を聞いて、イエス様と一つとされていくこととすごく似ています。その逆パターンです。
彼は3年かけて欲と罪を自分の中で育てました。愛さないこと、憎むこと、相手を切ること、反対にお金や権力を愛することを密かに育て続けました。罪に献身してイエス様を殺すために、売り渡しました。ただ裏切るのではく、お金を愛する故でもありました。
(マタイの福音書26章15節)
こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
罪をすると、少しのご褒美が与えられます。罪には甘い蜜があります。イエス様を裏切って得た報酬は銀貨30枚でした。闇バイトのようです。今の日本円に換算すると30万円だとか85万円だったとか諸説あります。罪に従うとご褒美をくれます。悪魔はお金で人を誘惑し、育て、大きなことをしようとします。でもその先は苦しみと絶望です。
(1テモテ6.9-10)
金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。
罪の報酬は死です。(ローマ6.23)お金のためにイエス様を裏切ったユダはこの後絶望して自殺します。
(マタイ27章3節から5節)
そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。
「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」
そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。
※役員を糾弾して辞任した牧師の例
「役員の人起立してください。」「この人たちのせいで私は辞任することになった!」そう怒って講壇から降りていき、二度と教会に戻らなかった牧師の話があります。
その事件は突然起こったことではなく、何年も前に小さな不満がスタートした日はあったはずです。牧師は役員に対して心の中でなんだこの態度は?と見下し、さばき、嫌った最初の日があったはずです。
その日に、赦しなさい、あなたは裁いているよ、あなたにも罪も欠点もあるから赦しなさい、愛しなさい、祝福しなさい、和解しなさい、って神様の言葉を聞いたはずです。
でも、その日、誰も知らないこころの中で、神様の言葉よりも罪のことばに従いました。最初にあの役員の人を心の中で呪った日がありました。赦さなかった日がありました。その日から、ずっとそれをやめずに何年も過ごした結果です。同時に神様のことばも聞いてはいました。互いに相手を自分より優れた人だと思いなさい。赦しなさい、相手を祝福しなさい、という言葉は聞いていましたが従わずに無視し続けました。
いきなり爆発して、みんなの前で役員の人たちを糾弾して教会を辞任したのではなく、ユダと同じように、何年もかけて罪のことばに従い続けた結果です。ずっとあの人が悪い、と心の中で呪い続け、神様のことばを無視し、罪のことばに献身し続けた結果です。
他人事ではありません。僕もあります。気に入らないこと、裁くこと、不満なことはあります。
この牧師さんと同じです。そして、ユダと同じです。
いきなり牧師に文句を言って教会を出ていくことはないです。いきなりの離婚はありません。みんな小さく、心の中でさばき続けていて、罪の言葉に従い続けて悔い改めることも、手放すこともなく、相手を憎み相手の欠点を数える甘い蜜を吸い続けた結果です。いきなり会社のお金の横領で事件になることはない。小さな積み重ねです。不正も不倫も同じです。このくらいはいいじゃん、と思って罪を楽しんだこと、ポルノも盗みも、そういう小さなことがいつの間にか手がつけられないほど成長し、ユダのように、イエス様を裏切り殺す人に育ってしまっています。
あれ?自分は罪の教えに従っている、と気がついたらその日のうちに、罪を認めて告白してやめる祈りをちゃんとすることです。
1「私の中に( )の罪があります。これをやめます。手放します。」
2「罪の悪影響から私を解放してください」「悪魔の誘惑から救ってください」
3 「罪の悪影響から( )さんを解放してください。( )さんを祝福してください。
小さな罪は何年もかけて人を縛ります。
人を呪うのをやめないならそれは大きく成長します
イエス様は悔い改めなさいと言います。悔い改めは救いと祝福です。闇から光へ。呪縛から自由へ。悪魔から神様へ。死から命へ。絶望から喜びへ、です。
今日が悔い改める一番良い日です。癒され回復されるには今日が一番早道です。そのうち悔い改めるのは無理です。もっと傷は深く、誘惑の力は強くなっています。
●神様のことばに献身したイエス様
イエスの日はこの時、裏切られ逮捕されますが、もう完全に勝利していました。それは、神様のことばに献身していたからです。イエス様にとっての戦いは逮捕されるかどうか、ではなくて、その前に自分を手放し、神様に完全に明け渡すことでした。
(50)
イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
一緒に食事をした友が、親しくしていた人が自分を裏切る、という神様の預言にイエス様に献身していました。だから、神様の預言の通りに、ユダに「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言います。しようとしていることは、親友のお前が私を背き、私にかかとをあげ、背き、裏切ることです。神様のことばにイエス様は献身しました。
(詩篇 41:9)
私が信頼した親しい友が
私のパンを食べている者までが私に向かってかかとを上げます。
(詩篇 55:12-13)
まことに私をそしっているのは敵ではない。それなら私は忍ぶことができる。私に向かって高ぶっているのは私を憎む者ではない。それなら私は身を隠すことができる。
それはおまえ。私の同輩私の友私の親友のおまえなのだ。
イエス様の戦いは逮捕されないようにするのではなく、神様のことば通りにこの身になりますように、と、献身するのが戦いでした。今日読んだ少し前、ゲッセマネでの祈りが戦いであって、もうこの時は完全に勝利していました。勝利するとは、自分を捨てて、神様のご計画に委ねることです。
(39節)
「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
何時間もかけて、自分の望むようでなく、神様のご計画通り、望まれるままにしてください。そのことを受け入れました。殺されるけども、その先に復活があり、人々の罪の赦しがある、その聖書の教えに献身しました。神様のご計画の全ての預言が実現するために、イエス様は完全に神様のことばに献身しました。ユダは悪魔のことばに献身したのと真逆です。
だから、ユダが裏切ったときに「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われました。
イエス様には圧倒的な落ち着きと力があります。慌てて剣を振り回して戦おうとするペテロを止めて言います。
(52-54)
52,そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
53,それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
54,しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」
(56)
しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。
聖書のことばに従う決心をしたイエス様は圧倒的な平安と力があります。もちろんそれは簡単ではなかったです。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と書いてあります。(38)祈りが戦いでした。
そして、神様の預言を受け入れ、神様のことばに従う祈りをした後完全に勝利し、強さがあり、落ち着いています。ヨハネの福音書 18章6節を読むと、逮捕しに来た人たちの方が圧倒されて、倒れた、とあります。
(ヨハネの福音書18章4-6節)
イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。(…中略…)イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。
武装した大勢の人たちよりも、イエス様の方が圧倒的に強く落ち着いていて、この場面を支配しています。イエス様は裏切られて逮捕される被害者に見えますが、でも神様のことば通りに世界を救う歴史を動かしています。イエス様がこの時も支配者です。
このイエス様の祈りと献身する姿は僕らの模範です。僕らの戦いとは、実は相手を打ち負かすことではなく、自分を手放して神様のことば通りにする祈りです。自分を明け渡す祈りが勝利です。相手のことも神様のみ手に明け渡すことです
主の祈りのように、自分の思い通りではなく、御心が行われますように、と祈ります。自分の計算や計画や願いを手放す祈りです。
(39)
「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
イエス様のお母さんマリヤも同じ祈りをしました。
(ルカ1:38)
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
自分を手放し神様のことば通りになるように、と祈ったときに、私たちは落ち着きを取り戻し勝利をします。自分を捨てます。この計画をあなたに明け渡します。私ではなく、あなたの思いが鳴りますようにと言う勝利です。メンツが潰れてもいいです。体を殺されても大丈夫です、と言う勝利です。これが戦場でありこれが戦いです。神様に喜ばれています。
※悪い例 自分の剣で戦うペテロ
ペテロはその祈りができませんでした。寝ていました。それでいざイエス様が逮捕されそうになると、剣を出して切りつけたんです。
(51-52)
すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
ペテロはたとえあなたが何があっても、私は裏切りませんと言って、私は大丈夫だと思っていました。そして、何も祈ってなかったです。自分の力で相手をやっつけることが戦いだと思っています。
この時ペテロが立ち向かっていった人たちはローマの兵士たち600人、そして、宗教的指導者たちでした。絶対に勝てないし、イメージ してください。600人の警察官の前でナイフを振り回していたら、絶対に捕まり裁かれます。
祈っていない、神様の言葉を聞いてもいない、手放していない彼がする事は、ただ自分の小さな力を振りかざして相手を傷つけることだけです。僕らも同じです。神様の言葉を聞いてない人、祈ってない人、手放してない準備の出来てない人、多くの場合は、自分の小さな力で頑張ります。傷つけあって疲れてしまいます。ペテロは剣を振り回したけど、本当の剣とは、戦い方を聖書は教えてくれています。本当の敵である悪魔に勝つ方法、武器とは神様のことば、そしてそれに従うことです。
(エペソ人への手紙 6章17節)
救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。
僕らも、悲しいことが腹立たしいことがあるたびに、戦います。その剣とは、神様の言葉を聞いて、それに従うことです
その言葉が敵を愛しなさい。許しなさい。憎むものに善を行いなさい。忍耐しなさい、呪うものを祝福しなさいと繰り返しています。剣を振り回して、自分の力で解決しようとして相手を切りつけたペテロはこの後すぐに怖くなって逃げます。「そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。」とあります。(56)その夜、あなたも弟子だ、と言われるとあんな男は知らない、と3度も言って裏切ります。それが、自分の力で勝とうとする人の現実です。
聖書は、イエスの模範にならって悪に対して善をしなさい、といいます。
(1ペテロ2:20-21)
善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。
このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。
なんとあのペテロがこれを書いています!誰よりも失敗したペテロです。
そして、彼は学びました。戦いは、自分の剣とか力ではない。神様のことばに従うこと。イエス様に習うこと。悪に対して善で返すこと。忍耐すること。それが神様に喜ばれることです、と彼は教える人に変わりました。
僕らの戦いはみことばを聞いて、従う、という戦いです。自分の小さな知恵で、からで、剣を振り回したり相手を傷つけたり逃げたりしなくていいんです。ただ神様の御言葉を聞いて、それに自分を明け渡し、従うことが剣です。勝利です。
イエス様の勝利は、自分を神様のみことばに明け渡したことです。ユダの敗北は、罪の言葉に自分を明け渡し従い続けたことです。
自分に聞いてみましょう。
1あなたは密かに罪の言葉に従い続けていることはありますか
2毎日神様の言葉を聞き、それに従い委ねる祈りの習慣はありますか
委ねましょう。
自分の力でなく、神様の言葉に信頼して、自分を明け渡しましょう。
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