2024年3月22日金曜日

マタイ26.36-46

 マタイ26.36-46


疲れていると祈れません。やらなければならないことがいろいろあると祈れません。考えなければならないことがあると祈れません。眠いと祈れません。祈れない理由はいくらでも出てきます。

イエス様にとって一番悲しく辛かった時は十字架の前夜です。神からも人からも捨てられ呪われた人となることは、イエス様にとってあまりにも苦しくて悲しくて、弟子たちに一緒に祈ってほしいとお願いしました。



(36節から39節)

36,それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

37,そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。

38,そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」

39,それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」



イエス様は苦しみながら何度も、何時間もこの祈りをされます。一方、弟子たちは祈ることができずに眠っています。



(40節から41節)

40,それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。

41,誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」



眠っている弟子たちは、まるで僕らそのものです。祈ろうと思っても自分の頑張りでは無理です。自分では祈れない弱いものです。イエス様が一番祈ってほしいとおっしゃってる時に寝てしまう彼ら、そして僕らです。


祈らせてくださるのは聖霊です。一緒にとりなしてくださるのはイエス様です。僕らは自分の名前でなくイエス様の名前で祈ります。イエス様の権威によって、力によって、御霊の助けによって祈らせてもらえます。聖書は「どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」と言います。(エペソ6.18)


大変な時こそ、神様の御もとに行きひれ伏して自分の気持ちを言い表す必要があります。イエス様でさえ「わが父よ、できることなら、この杯(苦しみ)をわたしから過ぎ去らせてください。」と何度もお祈りされました。自分の願いや気持ちを、ちゃんと言葉にしることは大切です。「あらゆるばあいに(…中略…)あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」と聖書は言います。(ピリピ4.6)神様はもう知ってるでしょ?ではなく、ちゃんと言葉にして報告するのが大切です。


次に、自分の思いや願いや計画を手放す必要があります。イエス様は何度も「私が望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください」と言われました。そして僕らにもそのように祈りなさい、と教えておられます。「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」です。(マタイ6.10)


大変な時こそ祈る時です。今日も祈りましょう。「祈れないです」と祈りましょう。「弱いものです」と祈りましょう。「聖霊様、一緒に祈ってください」と祈りましょう。聖書は「御霊によって祈りなさい。」(エペソ6.18)と言います。御霊の助けがなければ祈ることができません。またイエス様のとりなしがなければ祈ることができません。「よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8.34)祈りなさいとおっしゃるイエス様も御霊も一緒に祈って下さる方です。


イエス様は祈りの中で自分を手放しささげました。その後は、自由に、恐れなく与えられた苦しみを成し遂げていかれました。

神様が願っておられるのは献身の祈りです。献身とは自分を手放し、神様に明け渡し、計画も願いも手放すことです。ああしたい、こうしたい、は献身ではありません。「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(39)と祈ることです。

今日もイエス様と一緒に御霊と一緒に祈りましょう。「神様の思い通りにしてください。自分の思い通りにならなくていいです。ゆだねます」と。





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