イスラエルとガザ地区の平和が実現する日とは
ローマ11.25-33、ゼカリヤ9.9-10、マタイ23.29-39
新しい契約とは、イエス様による赦しの契約です。聖霊が与えられ、敵を赦し、敵を愛する新しい契約のことです。
イスラエルがイエス様をメシアだと受け入れる日に全ての戦車や武器は廃棄され、完全な平和が実現することが約束されています。
(ローマ11.25-33)
25,兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、
26,こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。
27,これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。
28,彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。
29,神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。
30,あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。
31,それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。
32,神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。
33,ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。
① イスラエルは今は神に敵対している(28、30、31)
(28)
彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です
(31)
それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。
(マタイ23章37-38節)
37,エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
38,見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
イエス様はマタイ23章で「わざわいだ」と繰り返しています。それはユダヤ人たちが預言者を迫害し、イエス様を王と認めず、逆に自分達を義とし高ぶってエルサレムを支配しているからです。
神様はイスラエルを愛する宝の子どもたちとして何度も彼らを集め保護しようとくださいました。その翼の下にいる時にはどんな敵や災いからも守られます。「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。」(37)とイエス様はおっしゃいます。神様の翼の下にいることは最新のレーダーや迎撃ミサイルよりも信頼できるし安全です。でも、彼らはそこにいるのを望まず、預言者たちを嫌い殺しました。また、彼らを祝福し愛ち守るために遣わされたイエス様を嫌い、殺します。
自分から羽の下から出ていくことは自分を荒れ果てたまま見捨てられるようにすることです。約束された安全保証はなくなり、敵にさらされ、自力で戦わざるをえなくなります。今のイスラエルはまるでそのようです。イエス様を拒否したことによってエルサレムは崩壊し、イスラエル人たちは祖国を失い苦しみ続ける歴史が始まりました。今もイスラエル人たちは敵に囲まれ苦しんでいます。回復の道はただ一つ、悔い改めてイエス様を受け入れ、愛し、祝福することです。
② イスラエルはそれでも愛され選ばれ召されている(28-29)
(ローマ11.1)
神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。
(28-29)
彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。
(マタイ23.37)
わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。
③ イスラエルもガザ地区も不従順になっているのは神様の憐れみだけがが表されるため(31)
人の努力とか行いで平和が実現することはなく、平和や祝福は100パーセント神様の憐れみです。神様の憐れみだけが明らかになるためのプロセスとして、今、イスラエルはイエス様に対して不従順になっています。それはまるで壊されて当然の壊れた器が見捨てられなかったようです。それは、イスラエルだけでなくどの国の人も同じです。僕らが救われたのは100パーセント憐れみです。
(ローマ9.22-24)
滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。(…中略…)
このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
(30-32)
30,あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。
31,それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。
32,神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。
④ イスラエルにもガザ地区にも平和が来るのはイエス様を受け入れる日(26)
(25-27)
25,兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、
26,こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。
27,これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。
救い主イエス様が王として来られる日には全ての戦いが不要になります。それは旧約聖書ゼカリヤ書に預言されており、預言の通りにイエス様は子ロバに乗って入場されました。(マタイ21.5)ですが、イスラエルはそれを拒絶してイエス様を殺しました。もしもエルサレムの人々がイエス様を王として受け入れるならば、その時に戦争は終わりイエス様による平和が世界に実現します。
(ゼカリヤ9章9-10節)
9,娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。
10,わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。
平和の王キリストが登場する特徴はへりくだった姿です。イエス様が軍馬でなく荷物を運ぶ小ロバで登場したことは平和の象徴です。軍馬でなく小さなロバに乗って登場する姿は全ての軍事力を不要なものとすることを表しています。イエス様のへりくだりは徹底しています。人々の罵りを受け、憎しみを受け、神様の裁きと呪いを受けて殺される側になってくださいました。
イエス様の教えは「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5.39)「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」です。(マタイ5.44)これは肉のままの人間には無理です。ところが世界の支配者である王キリストがそのように変えてくださいます。僕らの中にある怒りや憎しみを全部引き受けて、心も体も傷つき殺されながら僕らを赦し、祈り、祝福してくださいました。
聖書は、あの十字架の処刑ゆえに僕らが神様との平和を持っていることを何度も書いています。次に僕らがすべきことは、赦されものとして重荷、憎しみなどを全てイエス様に委ね手放すことです。そして、イエス様に赦されたように互いに赦し合うことです。
一瞬で世界を滅ぼすことができる神様が、すべての人の罪を背負って呪われ捨てられる側になってくださいました。これが王であるイエス・キリストです。このキリストを喜び受け入れ祝福する日に、イスラエルは回復します。
(マタイ23章39節)
わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」
イスラエルがイエス様を受け入れ、喜び、祝福するときに、彼らは完全に回復します。イスラエルの回復、そして世界の平和の実現は、イエスキリストを信じ受け入れることにかかっています。方法はただ一つです。
その日は親鳥の下で安心するヒナのように全ての人に平和が来る日です。もう自分を守るために最新鋭のミサイルを購入する必要もないし、SNSで有利な情報を発信し続ける必要もありません。
僕らが平和のためにできる最高の方法はイエス様を受け入れるように伝えることです。神様の翼の下はどんなことよりも安心安全です。「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。」(37)とイエス様はおっしゃいます。神様の願いは僕らが傷つくことでも戦うことでもなく、完璧な愛と保護の中にいることを願っておられます。
その日、神様の愛が全てを支配します。心の板に聖霊によって愛の律法が刻まれる日です。聖霊によって全ての人に神様の愛が注がれる日です。(ローマ5.5)その日こそイスラエルの平和の日です。そして、世界が平和になる日です。
(1コリント 13:4-7)
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
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