エレミヤ6章
誰かが言っていました。「罪や神様の裁きを伝えない事は、間接的な殺人だ」と。聖書は「神様に戻りなさい、そうでないともっと恐ろしいことが起こる」と警告しています。だのに伝えず、「大丈夫、大丈夫。神様の裁きはないよ」と言うなら、相手を神様の裁きと死、永遠の苦しみに誘導しています。
自分のことを「平和だしこのままで大丈夫。」と思ってるなら、自分に聞いてみましょう。「これって神様に認められる平和なのか?」と。
"彼らの家は、畑や妻もろとも、他人の手に渡る。わたしがこの地の住民に手を伸ばすからだ。──主のことば──
なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。
彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。"
エレミヤ書 6章12~14節
真実を隠して「大丈夫だよ、大丈夫だよ」と伝える方が、人からの評判も良く、波は立たず、儲かるようです。そうやって「みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っている」と言います。エレミヤの時代だけでなく今もそうです。僕らは神様の裁きという最大の問題から目を背け、「お金もあるし、健康だし、問題ない」と思い込ませる悪い癖があるようです。
"あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。"
ヨハネの黙示録 3章17節
「あなたは神様を軽んじてきた」と言われ、心を刺されて悲しむ人は幸いです。その人は神様に罪を認めて悔い改めることができるからです。これが本当の回復であり、祝福への道です。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」とおっしゃいます。(ヨハネ14.6)
罪を認め、悔い改めることによって、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(1ヨハネ1.7-8)
僕らは今日も分かれ道にいます。自分の罪を認めて、赦していただく道か、「このままでも大丈夫」と言い聞かせて滅びるか、です。
"主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。
わたしは、あなたがたの上に見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った。
それゆえ、諸国の民よ、聞け。会衆よ、知れ。彼らに何が起こるかを。
この国よ、聞け。見よ、わたしはこの民にわざわいをもたらす。これは彼らの企みの実。彼らがわたしのことばに注意を払わず、わたしの律法を退けたからだ。"
エレミヤ書 6章16~19節
「そのままで大丈夫」は嘘です。「あなたには罪がある。だから悔い改めなさい」が本当です。イエス様は言われました。「悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1.15)イエス様はその罪と罰を引き受けて身代わりに呪われてくださいました。これが福音です。「悔い改めて福音を信じなさい。」これが真実です。今日も分かれ道にいます。イエス様こそが「道であり、真理であり、いのちなのです。」
苦しみは、神様からのアラームです。目を覚まし、罪を認めるための警告です。イスラエルもユダ王国もアラームが鳴っても聞こえず、悔い改めもせず、滅ぼされて行きました。これは現代の僕らへの警告でもあります。
"彼らはみな、頑なな反逆者、中傷して歩き回る者。青銅や鉄。彼らはみな、堕落した者たちだ。
吹子で激しく吹いて、鉛を火で溶かす。鉛は溶けた。溶けたが、無駄だった。悪いものは除かれなかった。
彼らは捨てられた銀と呼ばれる。主が彼らを捨てられたのだ。"
エレミヤ書 6章28~30節
この警告に心を刺されて悲しむ人は幸いです。その人は悔い改めることができるからです。これが本当の回復であり、祝福への道です。
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