2025年10月18日土曜日

詩篇84.1-12「ただ一つの本当の願い」メッセージ

 詩篇84.1-12「ただ一つの本当の願い」メッセージ


●たった一つの本当の祝福


みなさん、疲れた時、傷ついたとき、落ち込んだ時、何を求めますか?温泉、美味しいもの、お笑い、いろいろあるかもしれないです。自分を幸せにしてくれる「特別な場所」とか「幸せにしてくれる人」ってありますか?これがあれば天国?みたいな、あの人がいれば楽しい、みたいなものや人、あなたにとってなんでしょう。

ところが、人に期待するとかえって期待はずれでガッカリさせられることあると思います。きっとボーナスが入るとか、お金に期待するとむしろ思ってたのと違ったで腹立たしい、と思うこと、あると思います。


今日の箇所は「なんと幸いなことでしょう」と繰り返します。本当に幸せで、なくなることのない満足と平和と喜びを求めている詩篇です。本当の満足や平安をみんな求めています。そして、多くの人は求めて、探して、彷徨っています。そして裏切られては傷ついてます。

そんな僕らに聖書は本当になくならない祝福を幸いを教えてくれます。本当の幸いとは神様とお会いし、神様と語り、神様と一緒にいることだといいます。


4-5節

なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。

なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。


大路とは、大きな道です。まっすに目的地に繋がってる道です。どんな時にも心の中には神様とお会いする場所に繋がってる人です。その人はなんと幸いでしょう。と聖書はいいます。

シオンにはこの当時神殿がありました。神殿に行って礼拝する場所がシオンです。エルサレムのことです。


1~2節

"万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。

私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。"


作者は「恋い慕っている」といいます。


新共同訳

「私の魂は主の庭に思い焦がれ」


リビングバイブル

「私は夢にまで見ているのです。」


でも一方で、恋い慕っているけど、まだ近づけなくて、「絶え入るばかりです」とも言っています。


4節

"万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。

私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。


衰えています、という翻訳も多くて、今は神様に憧れているけど、近づけなくて、苦しい、という気持ちです。乾いています。求めています。でも、遠いのです。


みなさん、中学生の時好きな男子のこと、女子のこと考えて、夜も昼も朝もずっとその人のことばかり考えたことありますか。どこかの道で、学校でばったり会えないかな、って憧れたことはありますか?憧れているけど、近くにいたいし、話したいんだけと、距離は遠くて苦しい、そんな経験です。


ずっと考えて、夢見ていているように、相手が自分を見てくれて、距離が近くなるように、そして、いつか愛されるように、そのように神様に愛され、自分も神様を愛し、近くにいて、神様へ愛の歌を歌う、賛美の歌を歌う生活を恋したっている、と言います。


でも自分と神様じゃ釣り合わない、遠い、とも思ってるみたいです。相手は聖なる聖なる神様です。自分は汚れた罪人です。


同じように、聖なる神様とお会いできる立場じゃないし、自分の汚れや弱さを痛感してたかもしれません。でも、神様を愛し求めているのは本当で、「自分の魂は主の大庭を慕い求めて気絶しそうだ」って言っています。そして、主の家にちゃっかり巣を作っている雀とか燕をうらやましいって思っています。


3~4節

"雀さえも住みかを燕もひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます。万軍の主私の王私の神よ。

なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。"


あの雀は幸せだなあ祝福されてるなぁ。あの燕はいいなあ僕も神様の家に住む鳥になりたいなあ、といいたげです。


これ大げさすぎでしょうか?

これ霊感された詩篇は御霊による祈りだし、僕らの中に住んでいる聖霊の願いです。


つまり聖霊様はそのように、神様を愛し、神様とお会いし、賛美することを願っています。

私たち人間に与えられる御霊は、そのように何よりも、誰よりも神様との交わりを願っています。


どんなこの世の楽しみよりも、神様の近くにいることが幸せだし喜びです。言葉にできないほどです。


10節

まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。


メッセージバイブル(意訳)

この美しい礼拝の場であるあなたの家で過ごす一日は、ギリシャの島のビーチで過ごす何千日よりもずっとましです。罪の宮殿で客人として扱われるより、神の家で床を磨く方がましです。


どんなに端っこでも、神様の家の門でもいいから、近くにいたいのです。


この思いは、僕らの中に住んでいる聖霊の願いです。本当は、そのように僕らの心の奥にはそのような聖霊の本音があります。神様を何よりも愛し慕い求めるように作られています。

僕らはいろんなことで傷ついたり渇ききったりしているけど、でも、心の奥では何よりも神を求めてます。


神様と会いたい、語り合いたい、癒されたい、愛されたい、神様を喜びたい、歌いたい、って叫んでいます。


教会は生きている神様との出会い、生きている神様と交わることです。

何か行事をするところではないです。帰り道、みなさんは車で、バスで一緒に礼拝に参加した家族や友達となんというでしょう。

「今日、礼拝で神様と会った」それで充分です。


今日の説教イマイチだったとか、あの伴奏が良かったとか、悪かったとか、いろいろあるけど、それを遥かに超えて、神様が確かにおられた。お会いした、それで充分です。そしてそれを僕らは求めています。


教会は人が快適で集まりやすいように、ルールを作ったり、プログラムを考えたりします。それも愛だし素敵で良いことだけど、一番の目的は神様とお会いすることなんです。


※桑田さんの路上ライブ


いつか見たテレビでサザンオールスターズの桑田佳祐さんが、何も持たずにただギターだけを持って、生声で駅前で歌ったらどうなるか、ってのやってました。夜、マイクもなし、照明もなし、ただ電柱の下で生声で、ギター弾いて駅前で歌い始めました。すぐ通りすがりの人たちが気がついてあっというまに何百人の人が集まるコンサート会場になりました。みんな桑田さんがそこにいて歌ってくれてるだけで十分でした。みんな感動して、一緒に歌って楽しんでました。そこが素晴らしいコンサート会場になりました。


同じように、教会は神様がいれば、神様とお会いできればそれで十分です。

僕らの心の奥で求めてるのは神様と交わり、賛美し、感謝し、愛を捧げることです。神様のみ声を神様の言葉を聞くことです。クリスチャンなら神様と会いたいんです。神様と交わりたいんです。


10節

まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。


この本音を分からなくするように、曇らせるように、消すようにする罪や誘惑があります。神様とお会いしたいのに、それ以外のことばかりに気が向いて、神様にお会いしていない、ということがあり得ると思います。駅前に素晴らしいステージを作って、照明のセットも、音響のセットもばっちりスモークも炊いて演出しているのに、本人がそこにいないのなら虚しいものです。でも、反対に、何もなくても本人がいればいいのです。


同じように、教会は神様とお会いできればそれでいいのです。もちろんいろんな準備も大切です。でも、目標は神様とお会いすることです。

神様とお会いするよりも、周りのことが気になりすぎて、よそ見をさせる誘惑が多すぎて、神様とお会いしたいにに、見上げたいのに、その言葉を聴きたいのに、神様のところに行かせないようにする妨害があります。イエス様は私のもとにきなさい、っておっしゃいます。


神様のもとに行くのにつまづかせるものがあるなら、どんなに大事なものであっても捨てなさい、とおっしゃいます。


マタイ18章8節

あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。


この世の楽しみ、この世の住まい、この世の素敵な人との生活、それがどんなに魅力的でも、気がついた時には、神様以外の幸せは消え去り、あんなに素敵に見えた人はそうじゃなくなり、変わっていきます。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢は消え去り、永遠の火になげこまれてしまいます。


1ヨハネ 2:17

肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。


だのに、最後にはがっかりさせられるのに、滅びることを隠して魅力的に誘導するのがこの世です。そこには永遠の喜びはありません。すぐに乾いて、次を求めます。こんなはずじゃなかった、最初はあんな人じゃなかった、よくある話です。素晴らしい会社だと思ってたのに入社してみたら話が違った、結婚してみたらガッカリした、よく聞く話です。僕らの本音は神様の近くにいたい。ただそれだけです。これが僕らの内側にある聖霊による新しい心です。


5節

なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。


※皆さんにとって、神様につながる大路、神様につながる道路を塞ぐもの、つまづかせるものはなんでしょう


ある人はインスタ、ある人は彼氏彼女からのお誘い。ある人は自分のメンツ。よく見られること。イエス様は「あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。」とおっしゃいます。どんな大事なものでも、です。

僕の20代は仕事が忙しすぎて神様が後回しでした。神様に近づきたいのにできない、という悩みを抱えていました。日曜はほとんど教会に来ても寝てました。疲れ切ってました。仕事に一番力と時間を注ぎ、神様は余った時間、余った体力だけだったし、ほとんど体力も気力も残ってませんでした。

皆さんの中にもそういう方がいるかもしれません。


ある時、阿部先生と相談して、クビ覚悟で勇気を振り絞って、会社の社長とも相談して、勤務時間を大分減らしてもらいました。それで給料は大分減ることなりました。でも、そうした時に、本当に天からの祝福が始まりました。一年後、会社の中で一番早く帰り、一番休む僕が一番売上に貢献し稼ぐ人に人になりました。給料は減るどころか、何倍にもなりました。


11-12節

まことに神である主は太陽また盾。主は恵みと栄光を与え誠実に歩む者に良いものを拒まれません。

万軍の主よなんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。


太陽の光が全ての生き物に必要です。春になると太陽の光で雪が溶けて植物は芽を出し実ります。そのように神様こそ命の泉、光、僕らに必要な全てです。


神様がその恵みをあげないことはありません。11「誠実に歩む者に良いものを拒まれません。」神様の家には恵が満ち溢れています。神様はそれを与えるだけでなく、守ってくださいます。神様は盾です。


※天国の倉庫


ある人が言いました。天国に行ってみたらたくさんのたくさんの倉庫もありました。

よく見ると一つ一つの倉庫に名前がついていて、自分の名前もありました。

それで、その人は天使に「この倉庫、僕の名前がついている倉庫、みてもいいですか?」って聞いたそうです。

天使「いいですけど、やめた方がいいですよ。」

でも、どうしてもみたいので、お願いしました。そしたら天使がそれを開けてくれました。

中には素晴らしいもの、出来事、愛が、喜びが、満ちていた。

それで天使に「僕の倉庫に満ちているこの素晴らしいものはなんですか?」と聞いたそうです

そしたら天使が「あなたが地上にいた時、神様が与えようとしていたけど、あなたが神様に求めなかったものですよ。」


●悲しむ人の幸い


日常生活では悲しいこと、傷つくこと、苦しいことたくさんあります。だからこそ、神様とお会いすることを僕らは切望します。


6節

彼らは涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とします。初めの雨もそこを大いなる祝福でおおいます。


皆さんの涙の谷、苦しみ、飢え乾くの理由は何でしょう。誰かに傷つけられることでしょうか。お金の心配でしょうか。健康上の問題でしょうか。誰かとうまく行かないことでしょうか。忙しさでしょうか。僕らは涙の谷を通ります。


苦しみの中でも泉が湧き力が与えられ喜びが与えられる人がいます。どんな人でしょう?その人は


5節「その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。」


まず、力は神様にあります。自分に力がない、とわかってる人です。力は神様のものです。力は自分からは出てこない人です。心貧しい人は幸いです。悲しむ人は幸いです。飢え乾く人は幸いです。


そして心の中に大路のある人です。先ほど話した通りです。苦しくても、悲しくても、心の中は神様との道路が繋がってる人です。心はいつも神様に祈り、神様に求め、神様の声を聞く人です。いつも祈りながら、相談しながら、報告しながら、涙の谷を歩む人です。


8節

万軍の神主よ私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ耳を傾けてください。


力は僕らからは出ません。癒しも、平安も出てきません。でも、神様とお会いする時、神様の声を聞く時、まるで泉が湧くように、力が、平安が、癒しが与えられます。貧しい時こそ、悲しい時こそ、自分に力がない時こそ、神様を求める時です。


マタイ5章3節

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。


太陽の光が全ての生き物にいのちを与えるように、神様が苦しみの中にあっても光を照らし、力を与え、新しい命を与え、しかも、それがなくならないように、盾となって守ってくださいます。


11-12節

まことに神である主は太陽また盾。主は恵みと栄光を与え誠実に歩む者に良いものを拒まれません。

万軍の主よなんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。


●私たちへの適用


「教会に集まる」目的は生きている神様にお会いすることです。教会は神様の家です。建物でも部屋でも組織でもなくて、その中心はプログラムではなくて、神様とお会いすることです。教会は神様に呼ばれた人たちです。遠かったのに、赦され、愛され、きよめられて神様の子どもとされた人たちです。

キリストの家族だし、体の各器官なので、一緒に集められて神様をお会いします。集まって一緒に求めるとき、一緒に感謝する時、賛美する時、神様は特別な形でそこにいてくださいます。


4節

なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。


神様は「人が一人でいるのは良くない」と最初から言われました。


創世記2章18節

「人がひとりでいるのは良くない。」


神様の願いは二人以上の人が心を一つになって神様を愛することです。これが神様の似姿に造られた僕ら人間です。僕らは助け合って神様を愛し、神様に愛されるように造られています。体の器官は他の期間が必要です。手だけでは生きられないし、耳だけでもダメです。「人が一人でいるのは良くない」のです。メッセージをする人も、聞くひとも、受付をする人も、子どもを担当する人も、食事を作る人も、賛美の伴奏をする人も、目的はみんなで神様とお会いすることです。


正直に言うと、神様よりも、それ以外のこと心奪われることが多いかもしれません。奉仕のことや、カタチばかり気になって神様とお会いする目的から外れていきそうになることもあります。

今日、神様はもう一度僕らに語りかけてくださっています。ただ、神様と交わるようにと呼びかけ、招いてくださっています。


10節

まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。


主の家にいることは、どんなことより優っています。

世界中のどんな楽しみや成功や栄光よりも価値があります。


マザー・テレサは言いました

「私たちは忙しいから祈る時間がないのではありません。むしろ、忙しいからこそ祈るのです。」


妨害の一つは忙しさです。文字通り、忙しい、という感じは心が亡くなる、ということです。+=忙

忙しさは神様を求める心、神様とお会いし、神様に感謝し喜ぶ心が死んでいくことです。だからこそ、忙しいからこそ手を止めて祈るのです。


忙しいと感じたまま、ため息をつきながら教会の奉仕をするなら、もう神様との命の交わりは死にかけていると思います。あれもやらなきゃ、こうでなければ、そう思って感謝も喜びも無くなっているなら、本末転倒です。神様の願いは何かをすることではありません。何もしなくても、神様の願いはただ、心を神様に向けて、神様と交わり、感謝し祈ることです。


1テサロニケ5章16-18節

いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

すべてのことにおいて感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。


いつも、です。絶えず、です。何をする時にも祈り、感謝です。誰よりもあなたを愛し、あなたを祝福し、あなたを守る方が一緒にいてくださいます。だから目を神様に向けて、心を向けて、そして口を神様に向かって開いて、喜んで、祈って 感謝することです。


「よいか」喜びの「よ」、祈りの「い」、感謝の「か」まとめて「よいか」です。


若い時はこれはムリって思ってました。仕事をしてる時は集中してるから無理って決めつけてました。教会でピアノを弾くにしても音を間違わないように、綺麗な音で弾くように集中しちゃって、神様に心が向きませんでした。でも、今58歳になって練習していることは、どんな時も神様のことを考えて伴奏することです。どんな時も楽譜とかコードよりも、天の王座に座っておられる神様の前で喜んで、感謝して、祈りながら演奏することです。「よいか」です。


の来月のカレンダーに彼女の言葉がありました。「天国は目の前にあります。見つけるためには目を開くだけで良いのです」

※写真


パウロとシラス(使徒の働き 16章)は牢に入れられ、手足を鎖でつながれても、
二人は夜中に「賛美して祈ってた」。牢屋にいても、そこが神様の家でした。

4節

なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。


今日の箇所は「なんと幸いなことでしょう」と繰り返します。


僕らはすでに天と繋がっています。

まず、神様のところに行きましょう。神様に心を向けましょう。神様と時間を過ごしましょう。

それが僕らの本当に求めていることです。皆さんの霊的な本音は何よりも神様を求めています。だのに、他の人、他のこと、あのこと、ことのことが先になってしまっています。その結果イラつき、悲しくなります。


皆さんの心の中の優先順位をもう一度考えてみましょう。

皆さんの心の中で一番大きいこと、大きな人、大きなモノはなんでしょう。

本当に恋慕い求めていることは神様との交わり、神様とお会いすることのはずです。それが聖霊を受けた人の本音の本音です。


ーー考えてみましょうーー

神様と過ごすことを何よりも求めていることを素直に表すためにできることを一つ考えてみましょう。


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