2025年12月2日火曜日
伝統的な讃美歌「天には栄え」を現代語に直してみました。
2025年12月1日月曜日
エレミヤ51.40-58 富と栄光が恥に変わる日 礼拝メッセージ
エレミヤ51.40-58 富と栄光が恥に変わる日
神様の愛は伝えたいけど、神様の怒りや裁きがあることは、なんかちょっと脅しのようで、みんなに伝えるのを躊躇しちゃいます。
それでも、聖書ははっきりと裁きを伝えています。その理由はそこからの救いの道も用意されているからです。すべての人が救いの道を知って救われて欲しいと願うのが願いです。だから、神様は全人類に裁きを下すことと、そこから逃れ救われる道はイエス様以外にないとハッキリおっしゃっています。
(使徒4:12)
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
神様はエレミヤに「残らず語れ。一言も省くな。」と言います。(エレミヤ 26:2 )
神様は罪を怒り嫌い、消し去ります。同時に罪がある人間を愛し、何とか救いたいと手を伸ばしておられます。
神の怒りを伝えないで、救いの道も知らせないで「そのままでいいよ。大丈夫」というのは残酷です。
船が沈んでるのに救命胴衣があることを教えないで、「そのままでいいよ」とか「船ではこう過ごすと快適だよ」というのと同じです。
神様の愛と救いの方法は僕らがちゃんと裁きがあり、終わりが来ることを伝えることと、同時に救われることを両方伝えることです。神様の願いの通り、すべての人が救われるために、躊躇せず、愛して、省略しないで伝えることができますように。「残らず語れ。一言も省くな。」です。
●神様に用いられた国も滅びます。
神様に用いられたからといって、その国とかその人が正しいわけではなくて、神様に用いられた人にも裁きがあります。
今日の箇所は神様の怒りの杖、怒りの道具として用いられたバビロンへの裁きです。
まずはイスラエルとユダが神様のこと知りながら、偶像を愛し、淫らなことを平気でするようになってしまいました。神様は怒り、悲しみ、エルサレムを滅ぼしてしまいます。その時に用いられたのがバビロンという強国です。
イスラエルもユダも70年間神様のこらしめを受けました。悔い改めて回復するのに70年間かかりました。彼らは家も国もプライドも全部取り去られる苦しい70年でした。でも、それが必要でした。
その時に神様の怒りの杖、懲らしめの鞭として用いられたのはバビロンです。バビロンも国として、その自覚があって、「私たちは神様に用いられて、神様のご計画で攻撃しています」「お前たちが罪を犯したんだから、私たちは神様に用いられているんだから、悪くない」と言って高ぶります。
"『私たちには責めはない。彼らが、義の住まいである主、彼らの先祖の望みであった主に対して罪を犯したためだ』"
エレミヤ書 50章7節
ところが、神様はあとでバビロンも滅ぼされます。
「私たちは用いられているから正しいんだ、悪くない」という誤解は身近です。
これは特に奉仕に熱心なクリスチャンとか指導者と言われる人は気をつけたほうがいいと思います。大きなミニストリーを任された人が「私は神様に用いられているやってるんだ、だから悪くない」という高ぶりです。
確かに用いられます。牧師も用いられます。でも神様の前に「正しい人は1人もいない」と聖書は言います。神様の裁きにはえこひいきはありません。ユダヤ人であってもバビロンであっても、神様の裁きはえこひいきなく行われます。
"悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、
善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
神にはえこひいきがないからです。"
ローマ人への手紙 2章9~11節
神様はイスラエルの罪を怒り嫌ったように、バビロンの罪を嫌います。そして裁きを下します。それでも忘れてはいけないのは、キリストはそれでも罪人を愛し、招き悔い改めと救いに導こうとされていることです。
(ルカ5:32)
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。
神様は罪を犯したイスラエルを慕ってます。嫌う神さまが罪人を愛しています。神の義と愛は両立します。バビロンか、イスラエルか、どちらが正しいという事はありません。今も、パレスチナか、イスラエルか、どちらが正しいか悪いか、ということはありません。キリスト教中の国が良い国で、イスラム教の国が悪いということもありません。聖書によると、「正しい人はいない、一人もいない」と言います。両方罪深いものです。ただ、イエス様の救いと赦しの道を知って、それを信じ頼っているかどうかだけです。私たち人間の罪は全て裁きに値します。神様の怒りは聖書にはっきり書かれています。
用いられているから立派な人、という事はありません。
牧師だから正しいなんで絶対にありません。救いの道は「イエス様がわたしの罪のために死んでくださった」これ1択です。この方以外に救いはありません。確かに、神様に用いられたバビロンです。その通りです。でも、神様はバビロンの罪を嫌い、徹底的に滅ぼす方です。
バビロンは強大な国としてその栄光を誇った国でした。お金持ちで何でもできた国でした。そして神を恐れず偶像と淫らな行為で満ちていた国でした。周辺諸国はみんなバビロンを賞賛しました。バビロンにつながる国はバビロンと取引をすることで豊かになりました。超巨大企業の社員がみんな豊かになり、その会社の下請け企業もみんな儲かるような構図です。まるでこの世の神のようにバビロンは振る舞いました。
ところがある日を境にバビロンは恥と嘲りの対象となります。
"バビロンは石くれの山、ジャッカルの住みかとなり、恐怖のもと、また嘲りの的となって、住む者はいなくなる。"
エレミヤ書 51章37節
「すごい、すごい」と言われていた人が転落することは今もあると思いますね。みんながチヤホヤしていたあの大手の芸能事務所がわずかな時間で周りから叩かれ、嘲られ、見捨てられていくことがあります。
80年前=1945年の敗戦の前後や戦時中・戦後で、権力者や国のトップが「英雄」だったはずなのに、急に「犯罪者」になりました。
三浦綾子さんは小学校の教師として、「天皇は神様で、この国は神様の国で負けることがない」ってちゃんと子どもたちに「忠実に教えてきた」のに、敗戦になった途端に、「私は一体何に真剣に打ちこんできたのだろう」「何も信じられない」と無気力になったそうです。今まで正しいと思ってたことが突然全て否定され、失われることがは今もあります。
この世の終わりには、それは全ての人が体験します。目の欲、暮らしの自慢、この世の富も権力も神様の前では何も役に立たないものになります。人々が「すばらしい」と言っていたことが急にガラクタになり、嘲りの的となってしまいます。
"ああ、バビロンは攻め取られ、全地の誉れであった者は捕らえられた。ああ、バビロンは国々の間で恐怖のもととなった。"
エレミヤ書 51章41節
バビロンは「全地の誉れ」(41)でした。バビロンと関わると儲かるので、だれもバビロンに悪く言う人いなかったと思います。ところがそれは突然、恐怖と嘲りの対象になりました。周りは急に、「あーなっちゃうんだ。怖いね、近づきたくない」と逆のことを言うようになります。
"その町々は荒れ果てた地となり、その地は砂漠と荒れ地となり、だれも住まず、人の子が通りもしないところとなる。"
エレミヤ書 51章43節
バビロン城壁は、「人類史上でも指折りの防御建築」と言われるレベルだそうです。高さは 約25 mで、これは7階建てビルの高さぐらいです。厚さは 約15 mで、一部ではもっと厚いとされますが、道路で言うと4車線くらいの幅です。絶対に崩すことができない。攻め込むことができないはずのバビロンでした。
"万軍の主はこう言われる。「バビロンの厚い城壁は完全にくつがえされ、その高い門にも火が放たれる。国々の民は無駄に労し、諸国の民は、ただ火に焼かれて、力尽きる。」"
エレミヤ書 51章58節
そうなさるのは神様です。高ぶるものを低くされます。そしてバビロンが70年前にエルサレムから奪っていったすべての神殿の用具をもう一度エルサレムに返すために、神様が働いてくださいました。それを神様は「吐き出させる」と表現します。
"わたしはバビロンでベル(偶像)を罰し、これが吞み込んだ物を吐き出させる。国々はもう、そこに流れ込むことはない。バビロンの城壁さえも倒れてしまった。
わたしの民よ、その中から出よ。主の燃える怒りから逃れ、それぞれ自分自身を救え。"
エレミヤ書 51章44~45節
悔い改めたユダヤ人たちは、今度は「そこから逃げなさい」といわれます。裁きに巻き込まれてしまわないようにです。
50章から51章で、神様は何度もこのバビロンから「逃げなさい」といいます。神様にまもなく滅ぼされるからです。。
"バビロンの中から逃げ、それぞれ自分自身を救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。これは、主の復讐の時、主がこれに報いをなさるからだ。"
エレミヤ書 51章6節
バビロンを賛美してた人たちは嘆きます。次は自分たちも殺されるんじゃないかと恐れ嘆きます。
逆に、霊的な世界、天では喜びが沸き起こります。なぜなら神様は罪が大嫌いだからです。神様が願っているのは罪が消え去ることです。
"天と地とその中にあるすべてのものは、バビロンのことで喜び歌う。北からこれに向かって、荒らす者たちが来るからだ──主のことば──。"
エレミヤ書 51章48節
●「すでに」と「いまだ」の間
歴史的にはバビロンはペルシャと言う国に滅ぼされました。ところが、ペルシャはバビロンの東にあります。ところがこの預言は「北からこれに向かって、荒らす者たちが来る」とあります。ペルシャのことだけの預言ではなさそうです。
バビロンが滅ぼされることは「すでに」その通りになったんだけど、でも、これから起こる「いまだ」のことでもあります。
黙示録はこのバビロンの崩壊を何度も引用しながら、将来この世界の富も快楽の全ての悪が消されることを預言しています。特に黙示録の18章は、このエレミヤ書50章-51章のバビロンの裁きを引用しながら、この世の終わりの裁きを説明しています
"「倒れた。大バビロンは倒れた。それは、悪霊の住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた憎むべき獣の巣窟となった。
すべての国々の民は、御怒りを招く彼女(バビロン)の淫行のぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と淫らなことを行い、地の商人たちは、彼女の過度のぜいたくによって富を得たからだ。」
それから私は、天からもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わたしの民は、この女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい。
彼女の罪は積み重なって天に達し、神は彼女の不正を覚えておられるからです。"
ヨハネの黙示録 18章2~5節
世の罪で作り上げた富と権力のことを黙示録はバビロンと呼んでいます。それは将来突然、恐怖と恥の対象となります。一日のうちに、様々な災害、死病と悲しみと飢えがバビロンと呼ばれるこの世を襲います。そして、それは火で焼き尽くされます。この世の快楽と富を楽しみ喜んでバビロンを持ち上げていた人たちの態度も急変します。
"彼女と淫らなことを行い、ぜいたくをした地の王たちは、彼女が焼かれる煙を見ると、彼女のことで泣いて胸を打ちたたく。
彼らは遠く離れて立ち、彼女の苦しみに恐れをなして、「わざわいだ、わざわいだ、大きな都、力強い都バビロンよ。あなたのさばきは一瞬にしてなされた」と言う。"
ヨハネの黙示録 18章9~10節
この世の淫らなことで経済が回っているそんな将来です。目の欲、肉の欲、暮らしの自慢で経済が周り、富と力はほめたたえられています。でも、それは一瞬で終わります。
その関係者は全て恐れおののきます。だから神様はそこに関わらないようにと僕らに警告します。
"それから私は、天からもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わたしの民は、この女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい。
彼女の罪は積み重なって天に達し、神は彼女の不正を覚えておられるからです。"
ヨハネの黙示録 18章4~5節
●私たちへの適用
今日の箇所は、僕らと無関係ではありません。
性欲のためのビジネスはもはや巨大な産業です。そのために人身売買が行われています。私たちは博子さんからも、サラハウスの報告でも聞いています。日本でも聞くようになりました。それらで集めた富と力に対して神様の怒りと裁きは下されます。そこから逃げよ、離れよ、とおっしゃいます。
人身売買は私はしてない、と言っても、間接的にでも人を貶めていることがわかったら、誰かをいじめることに加担することになるならすぐに離れることです。いのちを商品のように軽んじるグループからは抜けることです。そして、モノやお金をまるで神様のように崇拝する考えから抜けることです。エレミヤ50-51章は何度も、逃げなさい、と言います。
(50章8節)
バビロンの中から逃げ、カルデア人の地から出て行け。
(51章6節)
バビロンの中から逃げ、それぞれ自分自身を救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。
同じ表現で、この世の終わりにも逃げなさい、関わらないようにしなさい、といいます。
(黙示録18.4)
「わたしの民は、この女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい。
この世の快楽主義の「自分が気持ちよければなんでもOK」という考えは一瞬で恥に変わります。この世の宝は消えていきます。だから、滅ぼされる前に、罪と作り上げた世界から逃げなさい、です。
罪の価値観から出なさい、罪の習慣から出なさい、富や快楽への依存から逃げなさい、そういう意味です。イエス様によって許される道があるからです。
聖書がこんなにもはっきりと裁きを伝えるのは、救いの道が用意されているからです。イエス様の十字架だけが救いの道です。
(エゼキエル 33:11)
『わたしは誓って言う。―神である主の御告げ。―わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。
神様のために用いられた人であっても、快楽の罪の奴隷になっていた人であっても、救いの方法は一つです。イエス様以外にはありません。
(使徒 4:12 )
この方以外には、だれによっても救いはありません。
イエス様が、このバビロンへの神様の怒りと罰をご自分で十字架の上で引き受けてくださいました。
僕らが救われるのは、ただイエス様の十字架の犠牲によるもの一択です。
神様の願いは、裁かれて死ぬことではなくて、イエス様によって赦されて生きることです。
「そこから離れよ、逃げよ」ってどこに逃げるのか?それはイエス様の十字架のみもとです。
すでに、僕らのために神の怒りを受けて下さった、裁かれて下さった、呪われて下さった、あの十字架のところに行って、告白して、罪から離れることです。救いはイエス様以外にはありません。
※会社員の時、ご指名でお願いされた占いビジネスの音楽はどうしても作れませんでした。新興宗教の宣伝動画の音楽の仕事もできませんでした。ご指名で依頼された戦争ビジネスのロールプレイングゲームの音楽は作れませんでした。阿部先生に相談したら、戦争ゆえの飢えと苦しみを実際に味わった者として、即答で断るべしの一択でした。もし、それで儲かっても、神様に嫌われ、神様が悲しみ、神様の怒りを招くようなものなら、いらない、したくない、と思いました。
"バビロンの中から逃げ、それぞれ自分自身を救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。これは、主の復讐の時、主がこれに報いをなさるからだ。"
エレミヤ書 51章6節
質問です。
あなたにとって、離れるべき、逃げるべき、関わりを断つべきなものはあるでしょうか?
エレミヤ51.1-19
エレミヤ51.1-19
「神様を裏切って、神様の怒りで滅ぼされ見捨てられて当然なのに、神様は見捨てることがなく、赦し、救い出してくださった」これが、僕らの感謝の理由、賛美の理由、礼拝の理由です。
エレミヤの時代のイスラエルもユダも神様から離れて罪で満ちていたけれども、それでも見捨てられなかったと聖書はいいます。
"しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主に見捨てられることはない。彼らはイスラエルの聖なる方から離れ、彼らの地は罪過で満ちていたが。"
エレミヤ書 51章5節
神様に対してひどいことをしたのに、それでも救われて、義とされたのは100%神様のおかげです。「僕がああした、こうした」という誇りは何もありません。聖書は「神のみわざを」語ろう、と呼びかけます。純度100パーセントの神様のみわざです。
"主は私たちの義を明らかにされた。さあ、私たちはシオンで、私たちの神、主のみわざを語ろう。"
エレミヤ書 51章10節
神様は怒る方だし復讐する方です。この当時のバビロンは神様の怒りで滅ぼされました。イスラエルもユダも滅ぼされておかしくなかったのに、神様は滅びの中から逃げなさい、救われなさいとおっしゃいます。
"バビロンの中から逃げ、それぞれ自分自身を救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。これは、主の復讐の時、主がこれに報いをなさるからだ。"
エレミヤ書 51章6節
救われるか、滅びるかの違いは、神様の憐れみや恵みを信じてより頼むか、それとも、自分の知恵とか力により頼むか、です。バビロンは最後まで自分の力と財宝により頼んで滅びました。
"大水のほとりに住む、財宝に富む者よ。おまえの最期、おまえの寿命が尽きる時が来た。"
エレミヤ書 51章13節
人々がどんなにすごいすごいと言っても、人間の富も力はちっぽけです。神様だけがすべての権威と富を持っておられます。世界は神様の権威の中で動いています。
"主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を張られた。
主の御声に、天では水のざわめきが起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、ご自分の倉から風を出される。
すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、彫像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中には息がない。
それは空しいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。"
エレミヤ書 51章15~18節
僕らが救われる道はイエス・キリストの愛と憐れみ一択です。今日も、神様はイスラエルを、そして全ての人を救おうと手を差し伸べておられます。
"そして、イスラエルのことをこう言っています。「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して。」"
ローマ人への手紙 10章21節
今も神様はイスラエルに対する愛と救いの恵みを忘れていません。イスラエルは今日もやっぱり神様にとって約束の民、神様の長子です。見捨てられたのではないし(ローマ11章)今日も神様はイスラエルが栄光を相続する民として戻ってくることを願っておられます。
"ヤコブの受ける分は、このようなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主のゆずりの民。その御名は万軍の主。"
エレミヤ書 51章19節
そしてまた、イエス様を信じる僕ら日本人も同じように神様の相続人であり、神様の子どもたちです。
いい人だったからではなく、ただ神様の恵みです。ただ感謝しましょう。ただ賛美しましょう。「さあ、私たちはシオンで、私たちの神、主のみわざを語ろう。」(10)僕らに誇るものなど何もありません。ハレルヤ!