2025年10月27日月曜日

エレミヤ25-26.19

 エレミヤ25-26.19


神様の愛は伝えたいけど、神様の怒りや裁きがあることは、なんかちょっと脅しのようで、みんなに伝えるのを躊躇しちゃいます。

でも、聖書がこんなにもはっきりと裁きを伝えるのは、同時に救いの道も用意されているし、すべての人が本当のことを知って救われて欲しいと願う神様の愛と願いだなって思います。神様は全人類に裁きを下すとハッキリおっしゃっています。



"まことにイスラエルの神、主は、私にこう言われた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。

彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる。わたしが彼らの間に送る剣のゆえである。」"

エレミヤ書 25章15~16節



"見よ。わたしの名がつけられているこの都に対して、わたしはわざわいを下し始めているからだ。あなたがたは罰を免れようとするのか。免れることはできない。わたしがこの地の全住民の上に、剣を呼び寄せているからだ──万軍の主のことば。』

あなたは彼らにこのすべてのことばを預言して言え。『主は高い所からほえ、聖なる御住まいから声をあげられる。その牧場に向かって猛々しくほえ、ぶどう踏みをする者のように、地の全住民に向かって叫び声をあげられる。

その叫び声は地の果てまでも響き渡る。主が諸国の民と争い、すべての肉なる者をさばき、悪者どもを剣に渡されるからだ。──主のことば──

万軍の主はこう言われる。見よ。わざわいが国から国へと移り行き、大いなる暴風が地の果てから起こる。

その日、主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らは悼み悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。』」"

エレミヤ書 25章29~33節



そんな悲惨な将来に希望が与えられました。それがイエス様です。この怒りと裁きは、イエス様が引き受けてくださいました



"この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」"

使徒の働き 4章12節



神様の怒りと裁きを伝えるのは、僕らが裁きにあわない道を選んで欲しいからです。神様はエレミヤに悔い改めるようにと伝えさせます。ちゃんと神様の怒りと裁きを語り、そして、悔い改めが必要なことも「残らず語れ。一言も省くな。」とです。



(26.2-3)

主はこう言われた。「主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。

彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすればわたしは、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直す。



神様の願いは罪人が殺されることでなく、彼らが立ち返って生きることです。



"彼らにこう言え。『わたしは生きている──神である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』"

エゼキエル書 33章11節



神様は罪を怒り嫌っています。でも同時に罪がある人間を愛し、何とか救いたいと手を伸ばしておられます。



(26.12-13)

エレミヤは、すべての首長と民に告げた。「主が、この神殿とこの都に対して、あなたがたの聞いたすべてのことばを預言するよう、私を遣わされたのです。

さあ今、あなたがたの生き方と行いを改め、あなたがたの神、主の御声に聞き従いなさい。そうすれば、主も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されます。



神の怒りを伝えないで「そのままでいいよ。大丈夫」というのは残酷です。

神様の愛と救いの方法は僕らがちゃんと裁きと救いを両方伝えることです。神様の願いの通り、すべての人が救われるために、躊躇せず、愛して、省略しないで伝えることができますように。僕らが用いられますように。



"神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。"

テモテへの手紙 第一 2章4節

2025年10月26日日曜日

エレミヤ24章メッセージ「祝福のための通過点」

 エレミヤ24章メッセージ「祝福のための通過点」


あなたが犯した罪のせいで、不幸になっている、神様から見放されている、と感じることはありますか?後悔していることはありますか?あの時の選択が間違って今こんな状況になってしまった、残念に思っている人がもしいらっしゃるなら、今日のメッセージはそんな人に対する神様からの希望のメッセージです。


●悲惨な状況こそが良い実を産む


今日の箇所を書いた人はエレミヤという預言者です。エルサレムに住んでいますが、エルサレムがバビロンという国に滅ぼされ、王国全体が失われ捕虜として連れていかれる時代。

その時に言われたのが今日の箇所です。


どんな様子だったか詳しくは2列王記に書かれています。


"バビロンの王は、主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、主の神殿の中にあるイスラエルの王ソロモンが作ったすべての金の用具を切り裂いた。主が告げられたとおりであった。"

列王記 第二 24章13節


神様は最初から何度もバビロンの攻撃を警告していました。

あなた方がわたしを裏切り、偶像礼拝をやめないなら、あなた方は敵に攻撃され全てを失う。あなたがは国を失い、敵に捕まって敵の国に捕虜になって連れていかれる、と。それは本当になりました。酷い目に遭うのは何度も罪を犯し、神様を軽く見て、裏切り続けたからです。この状況は彼らの罪の結果です。

人は罪という種を撒けば神の怒り、滅びという刈り取りをします。


(ガラテヤ 6:7-8)

神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。


最悪の状況に陥ったユダヤ人たちに神様は言われます。


(1節後半-2節)

主は私にこのように示された。見よ、主の神殿の前に、二かごのいちじくが置かれていた。

一つのかごにあるのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごにあるのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものであった。


皆さんイメージしてください。

片方は腐っていて、臭ったと思います。

エレミヤは、この人々、神様を裏切ってきたこの国が腐って食べられないいちじく、って言われるんだろうな、という場面です。

ところが、神様は耳を疑うようなことを言われます。


(3-5)

そのとき、主が私に、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いほうは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」

すると、私に次のような主のことばがあった。

「イスラエルの神、主はこう言う。わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。


え?と聞き返したくなる場面です。神様は今間違えておっしゃいました?この腐ったイチジクはユダとエルサレムじゃないんですか?今、良いいちじくって言いましたよね?良い方ですか?捨てられんじゃなかったのですか?!


神様は続けて言われます。


(6-7)

わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。

わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。


腐って当然のような最悪な人々のことを、

2「非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のよう」5「この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。


どういうことなのか?神様に捨てられてこの悲惨な侵略と破壊が起こったのではなかったですか?

このことはエレミヤ29章10-11節にもう少し詳しく書かれています


(29章10-11節)

まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。


確かに罪を犯したその刈り取りとして、神様の怒りを受け裁かれ、捨てられました。神様のご計画は「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」と言われます。滅ぼして終わりではなく、非常に良いものに回復するための計画、将来の希望のための計画だとおっしゃいます。


神様は愛するものにちゃんと向き合って、ちゃんと必要な懲らしめ、苦しみを通されて、余計な不純物は取り去られます。これが神様のメッセージです。、全てを失う彼らこそ、どん底を体験することこそ、非常に良いイチジクになるための途中経過です


今までは偶像に頼り、自分に頼り、誇り、欲望のままに生きていました。でも、強制的に全てを失いました。それは、彼らをもう一度回復されるためです。


神様ははっきり言われます。


(7節)

わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。


この試練によって、「彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。」と言われます。心の全部が変えられるためのどん底です。


●十字架のイエス様の死と復活を示すため


イエス様は十字架で苦しみを受け、神様の裁きを受けて、苦しんで殺されました。そして、聖書はあの十字架の苦しみは罪のための罰であり、神の怒りだったといます。


(イザヤ53章3-5節)

3,彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。

4,まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

5,しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。


あの十字架は僕らの罪の結果です。


(1ペテロ2章24節)

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。


そして、その後、復活されました。神様の怒りを引き受けて苦しみ、殺されました。でも、その後復活し、今も生きておられます。イエス様を信じる人、受け入れてイエス様とつながった人、とは、イエス様と一緒に神の呪いと怒りを受けたとみなされ、一度死んだとみなされて、復活した人です。


※バプテスマとは

今日中田智大さんのバプテスマがあります。彼はイエス様と一緒に神様の怒りを受けて、一度死んだ人とみなされます。


水に浸されることは、罪人の中田さんがイエス様と一緒に一度死んだことを表します。

そして、水から上がることは、イエス様と一緒に復活して、新しい人生が始まることを表します。

中田さんの全てが、心の全てが変わることを表すのがバプテスマです。


(7節)

わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。


ユダとエルサレムの人たちが神様の怒りを受けて、一度全てを失うのは、そこを通って心の全てが変えられ、神様に立ち返るからです。


教会は道徳を教えるところではないです。頑張っていい人になりましょう。ああしましょう、こうしましょう、が中心ではなくイエス様と一緒に十字架で死に、赦され、変えられ、イエス様によって新しく変えられることが中心です。


僕らはイエス様を信じた時、イエス様とつながりました。キリストと一緒に一度死んで、今は復活してキリストと一緒に新しく生きています。


同じようにイスラエルは神様の怒りを受け、神様の罰を受けて国を失います。でもその後に復活します。

イスラエルの滅びと復活はイエス様を表しています。


最悪の苦しみを通ることが、新しく変えられるための通過点とされるのです。


(5-7節)

5,「イスラエルの神、主はこう言う。わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。

6,わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。

7,わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。


●私たちへの適用


悪魔は悪い想像を心に入れてきます。そして僕ら自身も神様の希望のことばよりも想像する恐怖を繰り返し反芻しがちです。自分の過去の失敗や恥を思い出しては落ち込みます。

悪魔はあなたは絶対回復しない。あんたは捨てられた。あなたの人生終わった あなたは不幸になる。とささやきます。


しかし聖書はそう言ってません。確かに罪の結果、人は恥ずかしくなり、苦しみます。でも、それは通過点であって、イあの十字架に向かい、悔い改めの祈りをしてきよめられるための通過点です。

これが神様のメッセージです。、全てを失う時こそ、全てを失う彼らこそ、非常に美しい良いイチジクとなります。


悪魔のささやきではなくて、イエス様の御言葉によって状況を判断することが大事です。ああすべき、こうすべき、とか、ああすればよかった、こうすればよかった、という後悔ではなく、十字架によって赦され、イエス様と一緒に復活する、福音に立つのが正解です。みんな罪があります。みんな恥があります。それで苦しみます。だからこそ、自分の妄想でも悪魔のささやきでなく、自分の計画や計算でもなく、福音の言葉をいつも聞く必要があります。


心貧しい人は幸いです。心砕かれた魂は幸いです。

最悪の状況によってあなたの人生が終わるのではありません。

彼らは、孤独だ。見放されたと感じています。でも、神様はそう言っていません。


(5節)

「ユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。」


彼らは終わってないし、この災いは祝福のためのスタートです。


※平安とは


平和とか平安と言うのは問題がないと言うことではありません。問題の中にあって、神様の御言葉を聞きながら希望を持って進むことです。神様は私たちを苦しみに合わせないようにする方ではなくて、苦しみの中であなたを守ってくださるお方です。

神の怒りはイエス様に注がれました。僕らに注がれたのではありません。皆さんの苦しみは罰でも呪いでもなくて、神さまの愛の訓練です。心の全てを持って立ち帰るための通過点です。


そのためには快適な場所から引き離されることがあります。

彼らの場合は70年も懲らしめられ、それによって生活全部を心全部を悔い改めて変えられました。


皆さんが今連れていかれている苦しみの場所はどこでしょう。

人間関係が壊れてしまうとか、経済生活が破綻するとか、健康を失うとか。

それでも、悪いことに見えても、あなたにとって必要な通過点だと見ています。


苦しみを通して、お金に頼っていた、自分の力に頼っていた、この世の楽しみで満たされようとしていたなど、余計なものが取り去られて神様だけに献身するように変えられます。神様のみことばを聞いて、信頼して生きるものと変えられていきます。

取り去られることは悪いことではなくて良いことです。

神様は、あなたの人生に良いことをなさる方です。試練を通らないとわからないことがたくさんありあす。


6節では「わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。」とあります。


外国に連れて行かれたけど、孤独と不安だったけど神様の眼差しから離れている時は一瞬もありません。

今日も神様はあなたを愛のまなざしで見守っています。神様が無関心でいるのではありません。

彼らはこの苦しみをと通して、神様とより近くなって彼らは成熟する人たちとなります。


ヤコブの手紙は言います。


"私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。

あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。"

ヤコブの手紙 1章2~4節


私たちは苦しみを通して成熟します。

神様は見捨てる方ではありません。

僕たちの悪い状況は罰ではありません。もっと良い計画のために用意されているものです。


エゼキエル書 11章18~20節

"彼らがそこに来るとき、すべての忌まわしいもの、すべての忌み嫌うべきものをそこから取り除く。

わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。

こうして、彼らはわたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行う。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。"


あなたの苦しみは祝福のための通過点です。自分を捨てて新しくされるためです。


考えてみましょう

あなたに与えられている苦しみは何ですか?

苦しみを通して今後あなたが手放すこと、心が変えられることを具体的にあげて祈りましょう。