2025年8月28日木曜日

リバーワーシップスクールオープニングメッセージ「賛美の回復」

 リバーワーシップスクールオープニングメッセージ「賛美の回復」

ようこそ札幌に来てくださいました。ほんとに嬉しいです。僕の家も教会もここから車で15分ですごく近いです。札幌はほんとにいいです。

ここで一緒に賛美させていただけること、僕もそこに加えていただけること、こんなに幸せありません。リバーで講師をさせてもらえるなんて光栄だなって毎回思っています。


皆さんが時間をかけて、お金かけて、仕事を休んでスケジュールを開けて、家族を置いて、飛行機に乗って、この三日間、人によっては4日、5日間かけておられることは、大きなささげ物だと思います。犠牲を払って集まるそれだけでも聖なる、そして喜ばれる捧げものだと思います。また、ここに集まっていることは、みなさんが神様に召され、呼ばれていると思います。そして、ここで、学ぶことと体験することを、神様が特別に一人一人にちょうどよく、その使命に応じて、役割に応じて、予想を超えた3日間を与えてくださると信じます。


主のために、大きなささげ物をささげて集まった皆さんに、神様がその何倍もの祝福を与えてくださると信じます。神様一人一人を祝福してください。


さて、こうやって、聖書のみことばを話すことができて光栄です。僕らを訓練し、整えてくださるのは、あの先生、この先生ではなくて神様のことばによります。


(2テモテ3章16-17)

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。


僕らはずれてきやすいけど、聖書によって矯正されます。もう一度神様が教えてくださいます。戒めて下します。イエス様が与えてくださる義の訓練をさせてくれます。

それは、「神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。」


神様の生きたことば、命のある言葉、御霊の言葉が僕らを聖なるものしてくださいます、ズレていた人には矯正してくれます。信じます。

神様、この時間、神様の言葉によって僕らをきよめてください。


さて、自分が生まれる国とか家とか選べません。クリスチャンがどの教会で生まれるかも、自分で選べません。どの教会で育つかも自分で選んだわけではありません。これもまたちょうどよく神様が与えてくださった恵です。


僕は23歳でイエス様を信じて、福音派の中でもだいぶ厳格な教会で育てられました。そして、2002年から牧師になって、それ以来、札幌にある北海道聖書学院という神学校で教えています。もう20年以上教えています。僕の担当教会音楽というクラスです。何を学んでいるかというと、創世記から黙示録まで、たくさんの歌や楽器と音楽のことが書いてあるので、それを、まず、全部、なるべくしらみつぶしに、読んでいこう、というクラスです。どんな楽器でどんな歌を歌ってるのか、どんな場面でどんな歌や楽器なのか、とか、ダビデの聖歌隊はこんな編成だった、とか、とにかく、順番に時系列に読んでいく、という基本の授業をずっとやってます。何年やっても新しい発見があって楽しんでいます。


それで、全部読んでいくと、やっぱり、僕らは賛美し、神様を愛し、ほめたたえ、感謝するために作られた、ってわかります。そして、今もそこに向かってる、ってわかります。今は罪が入ってしまって汚れてしまっているけど、それでも、イエス様によってきよめられて、もう一度神様の栄光に不純なものを混ぜないで、天の賛美にむかってることがわかります。


この2000ページ以上ある、聖書をざっくり短く時系列でまとめるとこんな感じです。


図で説明


まだ続きますが、まずこの最初のところ、天地創造のところ、エデンの園に賛美の音楽あったと思いますか? 答えは創世記には書いてない。最初、神様がこの天地をお作りなって非常に良かった、ってあるけど、歌とか音楽は書いてないです。さて、じゃ、エデンの園は音楽なしで、鳥の声、川の音、風の音だけだったでしょうか?

答えを最近見つけました。エデンの園に最高の音楽ありました。その様子がエゼキエル書に書いてあるんですね


"「神である主はこう言われる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。

あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石に取り囲まれていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、縞めのう、碧玉、サファイア、トルコ石、エメラルド。あなたのタンバリンと笛は金で作られ、これらはあなたが創造された日に整えられた。"

エゼキエル書 28章12~13節


どうやらエゼキエル預言者の時代の、ツロと言う都市に対する預言なんだけど、よく読むと、あれ?ツロの裁きでもあるけど、同時に、エデンの園にいた、美しく完全なものへの裁きです。素晴らしい存在だった、知恵に満ちていて、美の極みだったようです。しかも彼は神様の園エデンの園にいて宝石で囲まれていた、そんなすごい存在があったようです。しかも、その人は、楽器を持っていた。しかも、最高級の楽器を持っていて、整えられていて、知恵に満ちたこの人は美しい最高の音楽を奏でていたようです。でも、続きがあります。


"あなたの心は自分の美しさに高ぶり、まばゆい輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に放り出し、王たちの前で見せ物とした。"

エゼキエル書 28章17節


どうやらエデンのその最高に美しい、そして最高の楽器と音楽が奏でる存在は、多分、霊的な存在だったようです。最初は罪がなく、金の笛もあったみたい。素晴らしい竪琴も。素晴らしい音楽でした。

でも、「心は自分の美しさに高ぶり、まばゆい輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に放り出し、」とあります。はっきり書いてないけど多分悪魔のことかと思います。悪魔は、もともとエデンの園にいて、堕落する前は、素晴らしいミュージシャン、最高のミュージシャンだったようです。それゆえに高ぶり堕落してしまった。


エデンの園に音楽あった?と聞かれたら、音楽があった可能性があります。しかも、汚れのない、美しい音楽が最高の楽器があった可能性があります。そう書かれています。


でも、堕落し、高ぶる悪魔は今度は人間を誘惑します。あなたは善悪を知って神のようになれる。悪魔は自分も神になりたいけど、人間も一緒に引きずり込もうとします。

善悪の知識の実を食べるとあなたの目が開かれますよ。神のようになり、あなたは善悪がわかるようになる。そして最初の人間は騙されて善悪の知識を手に入れ、神様から隠れ、高ぶる、罪あるものとなりました。


クリスチャンになって何年経ってもこの罪がやっぱいりまとわりついていて、高ぶりたい。よく思われたい、善悪の知識を握りしめて、私は目が開かれている、わかってる、といいたい。他人を上からさばきたい、と今もそうですよね。


だから僕ら賛美するけど、いつも、神様の栄光でなく、自分の栄光を求める危険な罪といつも隣り合わせですよ。何年経っても罪まとわりついてるんです。


パウロでさえ、あの聖なる人、聖霊に満たされた最高のパウロでさえ悩み続けています。


ローマ7章

私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。

私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。


素晴らしいリバーのカンファレンスにも、人を裁く思いがまとわりつき、神様の栄光ではなくて、人の栄光ばかりに目を向けさせようとする誘惑があります。自分の演奏のうまさ、自分の良さ、誇りたいで思う気持ち、神様ではなく、あのリーダーがどうだ、あのピアノがいいか悪いか、あの人の歌はうまいかどうか、自分はどうか、人を評価し、うまい人を妬み、人を裁き人を悪く思う。そのような罪の性質がまとわりついています。


でも、聖書の歴史が教えているのは、そして、聖書が僕らを強制し、訓練し、導いてくれるのは、そこからの回復です。

罪があるのを認め、罪をイエス様に告白して、イエス様の血によって赦され、きよめられ、やがてイエス様の似姿に変えられていく、完成に向かって、栄光に向かっていることを教えてくれています。どうやって僕らは回復するのか教えてくれているのが聖書です。


神様は一度洪水で人類を全て滅ぼしています。ノアと家族8人で再スタートしたけど、やっぱり罪はまとわりつきます。


汚れた僕らがどうやって聖なる神様を礼拝したらいいのか、賛美したらいいのか、どうやって音楽をきよく用いたらいいのか、その具体的な方法が示されたのは、出エジプトの時代、まず、十戒が与えられます。


※図


奴隷にされて400年後、神様は脱出させてくれました。脱出してすぐに神様は十戒を与えました。簡単にまとめると神様を愛しなさい。そして人を愛しなさい。です。これも回復の一つのステップです。

できないんだけど、愛せないんだけど、でも、ガイドラインを与えてくれました。

他に神があってはらならない。偶像を拝んで作ってならない拝んでならない。主のみ名をみだりに唱えてはならない。


これも賛美の回復でもあります。神様だけを褒めたたえるんです。あの先生の歌がいいとか、あのバンドの演奏がいいって思うけど、それも感謝だけど、やっぱり主のみ名だけが崇められますように、聖なるものとされるようにしなさい。


これイエス様が教えてくださった主の祈りとおんなじです。

「御名が聖なるものとされますように。」「御名が崇められますように。」


「御名をみだりに唱えてはならない」も、何回も言っちゃダメって言う意味じゃなくて、心にもないことを、意味もなく、持ち出してはいけない、ってことです。出エジプトの言葉とイザヤ書の言葉は原文では同じ言葉で書いてあります


出エジプト207

あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。


イザヤ1章13節

13,もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集──わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。


形ばかりパフォーマンスだけ、心では他のこと考えてるような演奏や歌を、神様は嫌う、忌み嫌う。耐えられない、とおっしゃいます。

僕ら特に楽器やってる人は、大変です。神様の御名だけが賛美され崇められ、心をつくし、思いを尽くして、神様に集中すること、これは、楽器の人は大変です。やっぱり楽器のことに心が向きやすいです。コードが素敵とかアレンジがいい、とか。特にセンセサイザーの人は大変です。いろんな音を出すので、そっちに心が行きやすいから。そんな僕らのために、まずガイドラインを与えてくれました。


神様だけを愛すること、崇めることです。そして、人を愛することです。でも、できないのが僕らの現実です。聖なる神様にふさわしくない、汚れが付きまとうのが僕らです。

そんな彼らに、そして僕ら人間に、すぐに神様は幕屋を作りなさい、っておっしゃるんです。できない僕らのために、きよめられる礼拝の方法を教えてくれました


神様が天の礼拝の型として、聖なる天の国の礼拝の地上のコピーのように、幕屋を作りなさい、とおっしゃったんです。


みちや先生が詳しくやってくれています。汚れた僕らが、この心が、この口が、どうやって聖なる神様にふさわしく歌うことができるのか、その方法が幕屋です。


幕屋の礼拝は動物を連れてきて、その頭に手を置き、罪を告白して、自分の身代わりに捧げる礼拝です。

罪がゆるされ、きよめられ、神様に受け入れられるには、血が流されなければならない、と具体的に教えてくれたのがこの幕屋の礼拝です。


レビ1章)

2,「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたの中でだれかが主にささげ物を献げるときは、家畜の中から、牛か羊をそのささげ物として献げなければならない。

3,そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。(…中略…)

4,その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。



羊や牛を連れてきて、その頭に手を置いて、罪を告白し、それを自分自身として、ナイフで頸動脈を切って、屠り、血を流して、殺します。礼拝者は、血を流して死んでいく動物を見なければならないです。その場に倒れ、痙攣して、死んでいく動物はあなた自身です。自分が神の怒りと裁きを受けるべきなのに、身代わりの羊が、山羊が死んでいきます。自分がきよいささげもとなるべきなのに、身代わりに、この羊がささげられています。それをこの幕屋では強烈に体験します。


聖なる場所は見えなかったかもしれないけど、いつもその幕屋では殺された羊が焼かれ、牛が焼かれ、煙が上がっていました。

その周りにイスラエルは宿営していました。


僕らと同じ、家の揉め事、いつもあったと思います。僕らと同じように、日々妬み、怒り、嫌ったり嫌われたり、淫らな思いにとらわれたり、してたはずです。でも、礼拝のたびに動物が血を流して、死んでいくを見ました。遠くにいても、祭壇でその死体が焼かれ、煙が上がっているのがわかりました。ああ、今日も、僕らの代わりに動物がささげられたな、って今日も、殺され、焼かれているんだな、ってわかるのが、この宿営の真ん中の幕屋でした。これは天の礼拝の模型である、と聖書は言います。


血が流されなければ、罪の赦しもきよめもない。聖なる神様に近づくには、身代わりの死が必要だ、と教えてくれたのが、幕屋の礼拝です。

この幕屋の礼拝は天の影、天の写しだといいます。


(ヘブル人への手紙9章22節)

血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。


(ヘブル人への手紙9章23)

ですから、天にあるものの写しは、これらのもの(いけにえの血)によってきよめられる必要がありますが、天上にある本体そのものは、それ以上にすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります。


幕屋は天国のコピーです。僕らがどうやってきよめられ受け入れられるかを表しています。

イエス様こそ、この罪のための子羊となって僕らのために血を流し、死んでくださった生贄、最後のささげものです。

天の神様の前で僕らの賛美が祈りがきよめられ受け入れられるのは、屠られた子羊、イエスさまの血によります。


今も僕らは罪がまとわりついてるけど、でもただ、イエス様の血によって、あの十字架の血によって、赦され、受け入れられ、今もう一度あのエデンのその最高の賛美を、聖なる祈りと歌を目指してるんですよ。聖書全体は、僕らは落ちてしまったたけどもう一回回復することを教えています。今、その途中ですが、必ず栄光を取り戻します。その歴史と約束を教えてくれるのが神様のみことばである聖書です。


リハビリ中です。いつも罪が高ぶりが、邪念が妬みが、怒りが 淫らな思いが、人をさばく思いがまとわりつきながら賛美しています。ただ、イエス様の十字架によって赦され、きよめられることを信じて、また、いつもそれを教えてくださる聖霊によってだけ歌う、練習中、リハビリ中です。


新約聖書は私たちのこの体が幕屋だと言っています。また、教会が神様の宮だと言っています。

イエス様によって赦され、イエス様によってきよめられ、この子羊イエス様を褒めたたえる幕屋は、僕らのこの体だし、この交わりです。


だから、他人と比べたり、たかぶったり、よく見せようとしたり、いろんな余計なことを考えてずれていく僕が受け入れられています。

汚れてしまった不完全な皆さん、受け入れられています。僕らの汚れた歌や演奏が受け入れられるのは、ただ、イエス様が血を流し、赦してくださっているからです。みなさん、大丈夫です。


ーーーーー

続いて、新約の図です。


イエス様が、最後の罪を取り除くための生贄として天からきてくださり、十字架にかかってくださいました。


ヨハネは天の礼拝の様子を体験して、書き記しました。黙示録に天の礼拝の様子が与えられています。

天で賛美をお受けになっているのは、栄光に満ちたイエス様だけど、でもその姿はやっぱり、殺されたとみられる子羊とあります。


(ヨハネの黙示録5章6節)

また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。


栄光の体、栄光に満ちたイエス様であるはずなのに、天の礼拝でその真ん中にいるイエス様は、屠られた姿だったとあります。傷があり、刺された跡がある子羊だったようです。

しかも、歌っている歌詞も、屠られたイエス様を歌っています。


(黙示録5章12-13節)

彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」

また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」


天国でも無傷のイエス様じゃなくて、僕らのために手に傷があり、足に傷があり、刺された跡があるイエス様の栄光を歌っています。

神様の願いは、賛美を祈りを回復させようと願っていることです。

ゴールは僕らが天で、きよめられて歌うことです。完全にされて歌うことです。


今は罪と隣り合わせです。いつも悪い心が入ってきます。歌ってるのに歌ってないこと、他のことを考えていること、めんどくさいと思っていること、もう帰りたいこと、全部知っていてくださいます。そんな僕らが賛美できるのは、ただ、イエス様の血によってだけ、受け入れられ、賛美し祈り感謝します。


カンファレンスに集まると、いろんな賛美のバンドとか奉仕者がいて、バンドも色々でどうしても、比べたり、あの人があのリーダーが上手いとか、自分はダメだな、とか、どうしても思っちゃいます。

僕もそうです。どうしても人ばかり見ちゃいます。特にこうやって全国から集まると、神様の前でなく、人の前で聞かせるみたいな感じになっちゃいます。

聞いてくださるのは神様だけ、受け入れられるのはイエス様の血による、それだけです。うまいか下手かでなく、最初から最後までイエス様の十字架の血によって、御霊によってです。それ以外にありません。


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ダビデが人生後半一番頑張ったことは、聖歌隊を整えること。ダビデも、不完全だけど、天の賛美を目指していました。


"「そのうち、主の宮の務めを指揮する者は二万四千人、つかさとさばき人は六千人、

四千人は門衛となり、四千人は私が賛美するために作った楽器を手にして、主を賛美する者となりなさい。」"

歴代誌 第一 23章4~5節


"朝ごとに、立って主をほめたたえ、賛美し、夕べにも同様にすること、"

歴代誌 第一 23章30節


ダビデが作ったのは24チームの賛美チームです。

交代制でずっと賛美と祈りを探さなかった。

タカ先生が学びで詳しくやってくれると思うけど、彼らは達人でした。

達人とは、神様のみことばを深く理解する人、そして、神様のみことばを与える人のことです。楽器がうまい、という意味もあるけど、それ以上に神様の言葉について、神様の願いについてよく理解し、そして理解を与えるための預言するチームとしての聖歌隊でした。


彼らは楽器を持って預言するものたちでした。

僕らも音楽で、歌で、みことばを宣言し、歌い、伝える達人です。不完全だけど、イエス様の血によってきよめられたものです。

みなさんは、この3日間で、さらにそれを確信して、伝えるものになります。イエス様の赦しを確信して、みことばを伝える人になります。


ダビデが目指した聖歌隊も、僕らも目指すところは同じです。ダビデは本気でした。僕らも本気でやりましょう。


僕らの人生の目標は賛美です。賛美は神様のみことばを全世界に宣言することです。

栄光が神様にありますようにこのカンファレンスが神様のみ心の礼拝とつながっていきますように、あの堕落前の素晴らしい礼拝の回復でありますようにあのダビデが目指した礼拝の回復でありますように。


みなさんが喜ばれ、受け入れられているのは十字架の、惨めになって死んでくださったイエス様の血によります。イエス様以外に、救いはありません。


――


僕は23歳でイエス様を信じました。置かれた教会は福音主義の中でもだいぶ厳格な教会で育ちました。僕を育ててくれたおじいちゃん牧師はプレイズソング、ワーシップソングはふさわしくない、って言ってました。僕は20代、ミュージシャンとしてテレビとかゲームの音楽作る仕事してたので、遠藤さんはカナンの方が合うんじゃない、って言われることもありました。

そのあと、神様になぜか召されて、神学校に導かれなんだけど、そこもまた厳格な先生が多い学校でした。その学校も伝統的な歌以外は歌わないって言う学校でした。

そのあと、自分の教会に戻って副牧師になり、それ以来ずっとその厳格な先生と一緒に奉仕しました。周りからたまに言われたんですが、遠藤さんの考えと、師匠の阿部先生の考えと合わないでしょう。心配してくれるのか、たまに言われることがありました。確かに、自分のキャラクターとか賜物とか好き嫌いとか合う合わないって聞いたら合わないと思います。


でも、そのおじいちゃん先生が教えてくれたことは、本当に今も宝です。

遠藤さん、イエス様に従いたいんでしょう。人から悪く言われたら、それでいいよ。思い通りならなかったらそれでいいよ。だって、イエス様に従いたいんでしょ。

いつもその先生は、イエス様と一緒に死ぬことを教えてくれました。


僕らが中心に考えるべきはイエス様です。十字架のイエス様です。スタイルがどうか、文化がどうか、でななくて、十字架につけられたイエスです。


"なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。"

コリント人への手紙 第一 22


好きか嫌いか、合うか合わないか、僕ら考えます。イエス様が地上に来られた時のことをちょっとイメージしてください。


すべての権威と栄光をお持ちになるお方が、この暗闇の地上に来るの、この地上で生きること、合うか合わないか、合わないです。好きか嫌いか、イヤですよ。

栄光の神が赤ちゃんになっておむつ変えてもらうの、やりたいですか?

大人になったら、今度は聖書の先生たちにずっといじめられるんです。

お前の解釈が違う伝統的解釈はこうだ、お前はおかしい、ずっとパリサイ人たちから、先生と言われる人たちから攻撃され続けるんです。


イエス様地上に降りて行きたいですか?

それでもイエス様全部、捨てて、神のあり方を捨てられないと考えないで、しもべの姿をとり、十字架の死にも従われました。


愛する弟子たちも裏ぎり逃げていく、そんな世界で奉仕したいですか?

精神的にも肉体的にも追い詰められて、死ぬ直前までムチで打たれて、体中が血だらけで、顔が崩れて人のようではなかったってイザヤ書に書いています。


そんな世界に降りて行きたいですか?


でも、イエス様きてくださいました。何のために来てくださってんですか?

全部捨てて、罪人代表みたいに扱われて唾をかけられて、自分を捨てて、何も求めず、差し出してくださいました。


僕らを愛するゆえに全部捨ててくださった。ここに愛があるのです。

僕らを取り戻し、赦し、生かし、祝福するため、天に迎えるために全部捨ててくださった。

死んでくださった。これがイエス様です。

これが僕らが賛美する方です。そして僕らが従う方です。


私に従いたいものは自分を捨てて、自分の十字架を背負って、死んだものとして、従って来なければ私の弟子となることできないとおっしゃいます。


イエス様に従うことは、イエス様を見上げることは、あのアレンジか、こっちのアレンジか、どっちがいいか、って話は小さなことです。中心ではないです。

どっちがカッコよく歌えるか、そんなことは中心ではないです。


イエスキリストのあのとんでもない愛を、流された血の大きさを表すためにどうしたらいいだろうどういう、跪いて、平伏して考えるのが礼拝です。


イエス様に従うのが礼拝です。イエス様ならどうなさるか考えるのが礼拝です。

キリストと共に死ぬのが礼拝です。やりたいか、やりたくないか、好きか嫌いか、イエス様を見上げるときにそんなことは小さなことです。


キリストと一緒にぼくらは死にました。実際にイエス様のために自分の何かを手放していく事は、キリストとともに復活して生きるものとなります。

イエス様と一緒に自分を手放し、捨てるほどに、生かされていきます。


イエス様のために、畑も、家も捨てた人は、その100倍を受けます。

私たちキリストとともに十字架につけられました。もはや私たちが生きてるのではなくて、復活の主が生きておられるんです。


みなさん、選ばれてここにきました。労力をささげ、時間をささげ、お金を捧げてここに集まりました。

イエス様と一緒に死に、イエス様と一緒に生き、さらにイエス様中心の礼拝者となっていくことです。


神様ありがとうございます。私たちがこの三日間いや、人生そのものが神様への賛美でありますように、自分に死に、イエス様だけが現れる人生とされますように。ハレルヤ!


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