2025年9月2日火曜日

2列王24章

 2列王24章


僕らは問題や攻撃に会うと、すぐに「相手が悪い」と思います。でも、イエス様は「どうして自分の目にある梁(大きな罪)には気がつかないのですか。」とおっしゃいます。(ルカ6.41)

エルサレムとユダが外国から攻撃され、滅ぼされて行ったのは、実は敵のせいではなく、自分らが偶像礼拝をやめなかったことが原因です。神様ご自身が「ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。」とあります。(2)



(1-4節)

1,エホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来た。エホヤキムは三年間彼のしもべとなったが、その後、再び彼に反逆した。

2,そこで主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。

3,実に、このようなことがユダに起こったのは、ユダを主の前から除くという主の命によることであり、それはマナセが犯したすべての罪のゆえ、

4,また、マナセが流した咎のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを咎のない者の血で満たした。そのため主は赦そうとはされなかったのである。



問題は敵ではなく自分にありました。神様が許可しなければバビロンの王ネブカドネツァルが攻めてくることはありません。ユダにもエルサレムにも何度も神様は警告していました。「主がそのしもべである預言者たちによって告げられ」ていたとあります。(2)だのに、彼らは罪を認めず、悔い改めることもせずに滅ぼされていきます。聖書は「エルサレムとユダが主の前から投げ捨てられるに至ったのは、主の怒りによることであったのである。」とあります。(20)



(9-20節)

9,彼は、すべて先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行った。

10,そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの家来たちがエルサレムに攻め上り、都は包囲された。

11,バビロンの王ネブカドネツァルが都にやって来たとき、彼の家来たちは都を包囲していた。

12,ユダの王エホヤキンは、その母、家来たち、高官たち、宦官たちと一緒にバビロンの王に降伏したので、バビロンの王は、その治世の第八年に、彼を捕虜にした。

13,バビロンの王は、主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、主の神殿の中にあるイスラエルの王ソロモンが作ったすべての金の用具を切り裂いた。主が告げられたとおりであった。

14,彼はエルサレムのすべて、すなわち、すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や鍛冶もみな、捕囚として捕らえ移した。貧しい民衆のほかは残されなかった。

15,彼はさらに、エホヤキンをバビロンへ引いて行き、王の母、王の妻たち、その宦官たち、この国のおもだった人々を、捕囚としてエルサレムからバビロンへ行かせた。

16,バビロンの王は、すべての勇士たち七千人と、職人、鍛冶千人からなる勇敢な戦士たちすべてを、捕囚としてバビロンへ連れて行った。

17,バビロンの王は、エホヤキンのおじマタンヤをエホヤキンの代わりに王とし、その名をゼデキヤと改めさせた。

18,ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼の母の名はハムタルといい、リブナ出身のエレミヤの娘であった。

19,彼は、すべてエホヤキムがしたように、主の目に悪であることを行った。

20,実に、エルサレムとユダが主の前から投げ捨てられるに至ったのは、主の怒りによることであったのである。その後、ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。



危険なのは敵ではなく僕らの側です。周囲からの誤解や攻撃を受けると「相手が悪い」と思いやすいですが、その前に、この問題の中に自分の高ぶりや、神様よりも頼っている偶像のようなものがあるかどうか調べてみましょう。ユダとエルサレムが「主の前から投げ捨てられるに至ったのは、主の怒りによること」です。(20)


神様よりも愛し従う偶像があるなら、神様は妬む神様、怒る神様です。これらのことが書かれた理由は「戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(1コリント10.11)僕らへの攻撃や苦しみは内側の偶像や不信仰を神様があぶり出すためです。イエス様は「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。」とおっしゃいました。(ルカ6.42)相手に罪を見たとき、相手から攻撃されたとき、自分も同じことをしてきたことを認めましょう。いや、もっと大きな罪があることを認めましょう。試練や攻撃は自分にある罪を認めて悔い改める機会です。


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