2022年12月13日火曜日

エゼキエル19章

エゼキエル19章 思い通りにならないことは健全です。それは僕らを謙遜にさせます。僕らは王様でも支配者でもないからです。世界を治める唯一の方は神様だけです。この方の前にひざまずき、ひれ伏し、自分の善悪の知識を手放して、真理の言葉を聞き続けることは想像以上の祝福です。神様は僕らを豊かな実を結ぶぶどうの木としておられます。イエス様はおっしゃいました。 (ヨハネ15.5-6) 1わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。 旧約聖書の時代のイスラエル人たちも同じように豊かな実を結ぶ祝福されたぶどうの木のようです。イスラエルは神様が治めますが、実際は神様が任命された王様が治めます。首都エルサレムは祝福された王様を生み出す母親のようです。 (10-11) あなたの母は、水のほとりに植えられた、あなたのぶどう園のぶどうの木のようだった。水が豊かなために実りが良く、枝も茂った。その強い枝は王の杖となり、その背丈は茂みの中でひときわ高く、多くの小枝をつけて、際立って見えた。 だから、権力を持つ王様は特別に神様のみことばを毎日読む必要があります。彼が高ぶることなく神様と一緒に治め、王様も人々も神様の恵の中を歩むためです。みことばに聞き従うことは神様と一緒に歩むことです。王様になったらすべきこと、それは聖書を読むことでした。申命記に書かれています。 (申命記17.18-20) 彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。 ところが実際の王様は神様のみことばを聞かず、従わず、まるで若いライオンのように獲物を引き裂き、人を食べた、と書かれています。これは、実際に自分の欲望のために人を平気で殺すようなことをしていたということです。 (1-4) あなたはイスラエルの君主たちのためにこの哀歌を唱えよ。あなたの母は何であったのか。雌獅子だ。彼女は雄獅子の間に伏し、若い獅子の間で子獅子を養った。雌獅子は子獅子のうちの一頭を取り上げた。それは若い獅子となり、獲物をかみ裂くことを習い、人を食い滅ぼすようになった。諸国の民はその獅子のうわさを聞いた。その獅子は落とし穴で捕らえられた。彼らはこれに鉤をつけ、エジプトの地へ引いて行った。 実際エホアハズという王様は主の目に悪を行い、エジプトに捕らえられて死んで行きます。(2列王23章)そしてもう一人のエルサレムの王様も高ぶり、「人を食い滅ぼすようになった。この獅子は、やもめたちを犯し、町々を廃墟とした。」とあります。(6) この王様はバビロンで殺されます。 (8-9) そこで、諸国の民は周りの州から攻め上り、その獅子に彼らの網を打ちかけた。その獅子は彼らの落とし穴で捕らえられた。彼らはそれに鉤をかけて檻に入れ、バビロンの王のもとに引いて行った。彼らはそれを砦に閉じ込め、二度とその声がイスラエルの山々に聞こえないようにした。 バビロンで殺された王様はゼデキヤという王様です。その最後は悲惨です。ゼデキヤは、その子らの処刑される現実を自分の目で見るよう強要され、それを、最後の肉眼での情景として、目に焼き付けられた上で、両眼をえぐり取られ、バビロンに捕囚として連行されました。 本当は、神様に愛され、祝福され、安心して豊かな実を結ぶぶどうの木のようにされるはずでした。 神様から離れるならその最後は悲惨です。「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18)今日も主と共に、神様に仕え、人に仕えるものでありますように。みことばに聞き、従い、豊かな実を結ぶ神様のぶどうの木でありますように。

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