ユダヤ教もキリスト教も同じ神様を信じているし、同じ旧約聖書を信じています。旧約聖書の中にやがてメシア(キリスト)が生まれる預言があります。そしてイエス様がそのキリストだと信じる人たちがキリスト教です。
パウロはイエス様を伝えたた目にユダヤ教の人たちに憎まれ、殺されそうになりました。あまりの暴動に軍が出動してパウロを保護するほどです。人々の怒りは収まらず、軍に保護されてもなお暴行を続け殺そうとしています。彼はすでに血だらけです。それでも自分を殺す人たちに「兄弟たち、父たちよ」と話しかけます。
(21.31-36)
彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長に届いた。
彼はただちに、兵士たちと百人隊長たちを率いて、彼らのところに駆けつけた。(…中略…)
パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担ぎ上げなければならなかった。大勢の民衆が、「殺してしまえ」と叫びながら、ついて来たからである。
パウロは殺されそうになりながらも相手のことを「兄弟たち、父たちよ」と呼びかけます。その理由は自分もユダヤ教の人たちと同じ神様を信じているからです。そして、自分も昔、彼らと同じようにイエスを信じる人たちを許せなかったし、彼らを殴り、暴行を加え、時には死なせたこともあったからです。
(22.1-4)
「兄弟ならびに父である皆さん。今から申し上げる私の弁明を聞いてください。」パウロがヘブル語で語りかけるのを聞いて、人々はますます静かになった。そこでパウロは言った。
「私は、キリキアのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。そしてこの道を迫害し、男でも女でも縛って牢に入れ、死にまでも至らせました。
パウロはボロボロに殴られながら相手を愛し、赦し、語りかけます。まるでイエス様の姿です。そして怒りに満ちて自分を殺そうとしている人たちはまるでパウロの昔の姿を見ているかのようです。
パウロがイエス様を信じるようになったのは、強い光で目が見えなくなり、『サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか。』(7)『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。』(8)という声を聞いたからです。しかも、もう一度見えるようになるときに「見えるようになりなさい」(13)と言ってくれたのは同じ神様を信じ、旧約聖書の律法を重んじるユダヤ人のアナニアです。イエス様と出会わせてくださったのは「私たちの父祖の神」(14)です。パウロは自分と同じユダヤ人の神様がそのようにしてくださった、と強調します。
(12-14)
すると、律法に従う敬虔な人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人たちに評判の良い、アナニアという人が、
私のところに来て、そばに立ち、『兄弟サウロ、再び見えるようになりなさい』と言いました。するとそのとき、私はその人が見えるようになりました。彼はこう言いました。『私たちの父祖の神は、あなたをお選びになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。
怒りに支配され、イエスを信じる人たちは許さない、と思っていたパウロがイエス様を伝える人にされました。しかも、それは全て「私たちの父祖の神」によることです。
パウロの手柄は一つもありません。酷いことをしてきたパウロがイエス様に選ばれて、愛されて、赦されて用いられています。だから、自分を憎み殴る人たちのことを「兄弟たちよ、父たちよ」と呼びかけます。同じ罪人仲間としてです。
僕らクリスチャンも同じです。イエス様に選ばれ、導かれ、赦されてクリスチャンになりました。クリスチャンになったからと言って威張れないし、他の人を見下すこともできません。まだ信じてない人たちと同じ罪の仲間です。クリスチャンを嫌い、攻撃する友達や家族もいるかもしれませんが、それでも僕らは彼らに対して威張れないし、裁く権利はありません。同じ罪人だからです。ただ、先にイエス様に呼ばれて信じただけです。パウロも僕らも同じく、罪人が用いられています。
(1テモテ 1:13-15)
私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。(…中略…)「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
昔、ひどいことをした人、人を傷つけた僕らが赦されて、用いられます。イエス様は僕らを赦し、きよめて用いてくださいます。
キリスト教はどちらが偉いか正しいか比べる宗教ではありません。そんな教は一つもありません。ただ、赦された罪人の集まりです。
僕らが人を愛し、人を赦す理由は、イエス様が自分をどれだけ赦してくださったかがわかるからです。
パウロは自分を殺そうとする人たちを「兄弟たち、父たちよ」と呼びかけます。同じ罪人だからです。
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