僕らはみんな「自分は正しい」と思いたいものです。ユダヤ人たちは「自分たちだけが選民である」「異邦人は汚れたものである」と思ってきましたそれが「正しい」ことでした。ところが神様はパウロを異邦人に遣わされました。これはユダヤ人たちにとっては受け入れられないことです。
(21)
すると主は私(パウロ)に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす』と言われました。」
主がパウロを異邦人に遣わし、異邦人も救われるとすれば、ユダヤ人たちは何千年も信じてきた自分たちに考えを変えなければなりません。自分たちが間違っていたなんて怖いし受け入れられないことです。彼らは怒鳴ってパウロを殺すようにわめきました。不安は怒りとセットです。「自分たちは正しいはず」と思えば思うほどに、違う考えのパウロを受け入れず、排除しようとします。自分が正しいと思いたい人は不安でもあります。不安な人ほど他の人を否定し、怒りやすいようです。
(22-23)
人々は彼の話をここまで聞いていたが、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない。」
人々がわめき立て、上着を放り投げ、ちりを空中にまき散らすので、
エルサレムの治安を維持する千人隊長も必死です。
(24)
千人隊長は、パウロを兵営の中に引き入れるように命じ、なぜ人々がこのように彼に対して怒鳴っているのかを知るため、むちで打って取り調べるように言った。
ムチで懲らしめて何かを白状させればいい、と安易に考えた千人隊長ですが、これが大間違いでした。ローマ市民は裁判なしで罰を受けることは禁止されています。これは責任者である千人隊長の失敗です。
(25)
彼らがむちで打とうとしてパウロの手足を広げたとき、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むちで打ってよいのですか。」
(29)
そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、すぐにパウロから身を引いた。千人隊長も、パウロがローマ市民であり、その彼を縛っていたことを知って恐れた。
ローマ市民であるパウロを許可なく捕縛し、ムチで拷問にかけようとしていた隊長は責任を取らされます。それで、彼は自分を守るためにウソをつきます。総督にはローマ市民である彼を「救い出しました」と嘘の報告をします。
(23.27)
この男がユダヤ人たちに捕らえられ、まさに殺されようとしていたときに、私は兵士たちを率いて行って彼を救い出しました。ローマ市民であることが分かったからです。
みんな「自分が正しい」と思いたいものです。自分が正しくあるために嘘をつき、他人を攻撃します。これが神様から離れた人間の姿です。
神様から離れたアダムとエバの時代から、神様によらずに自分で自分をよく見せることが必要になってしまいました。
僕らは背伸びして「自分が正しい」と頑張る必要はありません。イエス様は十字架で全ての罪と恥を終えてくださり、正しいと認めてくださっているからです。僕らはイエス様の十字架によってだけ義と認められます。それで十分です。違う考えの人を攻撃して排除する必要はありません。嘘をついて背伸びして自分を守る必要もありません。
僕らの正しさはイエス様が与えてくださったものです。だから大丈夫です。「わたしはもはや決して彼らの罪と不法を思い出すことはしない」と今日も言ってくださっています。(ヘブル10.17)恐れる必要はありません。背伸びする必要もありません。失敗する僕らが義と認められました。僕らのことを正しいと認めてくださるのはイエス様です。イエス様の十字架の義は完璧です。今日も大丈夫です。怒って相手を排除しなくても、背伸びして良く見せようとしなくても大丈夫です。ハレルヤ!
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