人に認められなくても神様は認めてくださっています。人から「正しい」と言われなくても、イエス様を信じる人は神様が義と認めてくださる、と聖書は言います。(ローマ3.24)。僕らの考えがいいか悪いかでなく、僕らの行いが良いか悪いかでもありません。イエス様が僕らを赦し、聖めてくださったから僕らは義と見なされます。
ところが、神様を知らない人は不安です。自分の立場を脅かす人を排除しようとします。不安だからです。人は他人から良く思われたいです。怖いからです。大事なのは相手が自分を認めてくれるかどうかです。認められるなら安心します。みんな、自分を守るために必死です。そして、自分を認めてくれない人は排除します。
ユダヤ人たちはパウロを「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない。」(22.22)と言いました。パウロが自分たちの伝統や理解と違うことを言うからです。パウロは嫌われ、殴られ、殺されそうになっていました。
ところが、パウロが自分たちと同じ意見を言うと急に「この人には何の悪い点も見られない。」と態度が変わります。
(6-9)
パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見てとって、最高法院の中でこう叫んだ。「兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」パウロがこう言うと、パリサイ人とサドカイ人の間に論争が起こり、最高法院は二つに割れた。サドカイ人は復活も御使いも霊もないと言い、パリサイ人はいずれも認めているからである。騒ぎは大きくなった。そして、パリサイ派の律法学者たちが何人か立ち上がって、激しく論じ、「この人には何の悪い点も見られない。もしかしたら、霊か御使いが彼に語りかけたのかもしれない」と言った。
最高法院のメンバーは相手が自分にとって損か得か、敵か味方か、だけが関心事でした。それゆえに彼らは激しく争い、戦います。
神様を知らないければ僕らは人と争い、どちらが正しいかと争い続けます。
ところが真実は、イエス様の十字架によって人は神様に赦され受け入れられています。敵か味方か、ではありません。パウロは一生をかけてこのイエス様を伝え続けました。そのたびに憎まれたり、殺されそうになったりします。でも、パウロは神様に認められていました。人に認められなくても神様は認めてくださっています。人から「正しい」と言われなくても、神様が認め、受け入れてくださっています。
嫌われ、命を狙われるパウロに神様は言われました。
(11)
その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。
今日も人に認められなくても神様は認めてくださっています。パウロは一生かけてイエス様による義を伝えました。自分がいいか悪いかでなく、イエス様による義です。イエスさまは今日も僕らと一緒にいます。人の評価を恐れる必要はありません。今日も人の目でなく、神様の目には高価で尊い僕らです。喜ばれているものらしく、義とされた人らしく、喜んで生きましょう!ハレルヤ!
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