イエス様の弟子たちは決して勉強ができる人たちではありません、だのに、イエス様は弟子たちに向かって「御国の弟子となった学者」と呼びます。学者とは聖書の知恵があり、神様のみ心がわかる人のことです。どんなに勉強ができなくても、御国(神様のご支配)に身をゆだねて従う人は「天の御国の弟子となった学者」です。
(52節)
そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」
神様のみ心がわかり、必要に応じて聖書のことばとその意味を理解する人は、まるで「自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」 聖書には旧約と新約があります。旧約とはイエス様が来られるまでに神様から与えられた約束や教えです。そして、新約はイエス様による新しい教えや約束です。両者は別ものではなく、一つです。旧約聖書のことばは、イエス様の新約によって意味が明らかにされています。
イエス様を信じてイエス様に従いたいと思う人は、まるで倉から新しいものでも古いものでも取り出すことができるように、旧約聖書の教えでも、イエス様による教えでも取り出すことができるし、両者が統合されています。使徒パウロはまさに両方から自由に取り出し統合していた人でした。パウロは言います。
(ローマ13:8-10)
他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
パウロのような学者でなくても、どんなに勉強ができなくても、イエス様のことばに従いたい、と思っている人は「天の御国の弟子となった学者」だし、その人は神様の知恵とみ心を手にしています。多くの旧約時代の預言者たちや聖書学者たちも神様のみ心を求めて学んできました。でも、それを完全に知ることができるのは、イエス様のことばを信じ、聖霊を受けた人です。その人は、御国の弟子です。その人は祝福されています。
(マタイ 13:16-17)
あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。
反対に、「私はわかっている」「イエスはこうだ」と決めつける人は弟子ではありません。イエス様と一緒に村で育った仲間たちは「あいつは俺たちと同じだ」と決めつけ、その力もことばも信頼しませんでした。イエス様を信頼しない人には神様の力と知恵は与えられません。
(54-58節)
それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。
天の御国の弟子とは、自分の先入観とか自分の決めつけを手放して従う人です。「どうせイエスはこうだ」「どうせ聖書はこうだ」とわかったつもりになっている人には神様の力も知恵も与えられません。
僕らが考える程度のものなら薄っぺらでちっちゃいものです。
イエス様を僕らの理解できる範囲以下にするのは傲慢だし、失礼です。
わかってる、と思う人にはわかりません。自分はわかってないけど、イエス様は全てをご存じと思う人にはわかります。高ぶって自分でできる、という人にはできません。自分でなく、イエス様はおできになる、と思って信頼する人にはできます。
「こうだ」と決めつけていることはあるでしょうか。手放して信頼しましょう。僕らの考えや計画は小さすぎます。そしてイエス様は大きすぎます!
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