誤解されたり、間違ったウワサを流されたりすることはよくあることです。その時の対処には二種類があります。
1つ目は相手が悪い、と裁き、戦い、敵対する方法です。もう一つは誤解する相手を愛するために自分のスタイルを手放し自由に変えることです。聖霊に導かれた人は後者を選びます。パウロは「モーセ(律法)背くように教えている」(21)とユダヤ人たちから誤解されました。その時に彼は喜んで自分のスタイエルを手放します。
(20-22)
彼らはこれを聞いて神をほめたたえ、パウロに言った。「兄弟よ。ご覧のとおり、ユダヤ人の中で信仰に入っている人が何万となくいますが、みな律法に熱心な人たちです。
ところが、彼らがあなたについて聞かされているのは、あなたが、異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習にしたがって歩むなと言って、モーセに背くように教えている、ということなのです。
それで、どうしましょうか。あなたが来たことは、必ず彼らの耳に入るでしょう。
そこでパウロと長老たちは、彼らを愛するために彼らが大事にしている誓願の儀式を一緒にすることにしました。
(23-24)
ですから、私たちの言うとおりにしてください。私たちの中に、誓願を立てている者が四人います。
この人たちを連れて行って、一緒に身を清め、彼らが頭を剃る費用を出してあげてください。そうすれば、あなたについて聞かされていることは根も葉もないことで、あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、皆に分かるでしょう。
「誓願を立てている者」とは特別に神様に近づくために3つのことをやめる人たちのことです。民数記6章によると、彼らは一定期間①お酒は飲みません②死体に近づきません③髪は切りません。という約束を守ります。そのような儀式に囚われる必要はない、とパウロは思っていますが、彼らをつまづかせず、神様の福音が伝わりやすくするためにはパウロは喜んでその儀式を一緒にします。「頭を剃る費用を出してあげ」とは、彼らが③髪は切りません、という期間が終わったときに頭を剃るためのものです。
長年律法を大事に守ってきたユダヤ人たちをつまづかせず愛するために、異邦人のクリスチャンたちは3つのものを避けることを決めました。
(25)
信仰に入った異邦人に関しては、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けるべきであると決定し、すでに書き送りました。」
避けるべきものは①「偶像に供えたもの」 ②「血と絞め殺したもの」 ③「淫らな行い」の3つです。「淫らな行い」は文化を超えて避けるべきものですが、①と②はユダヤ人が大事にしてきたことです。①「偶像に供えたもの」は偶像礼拝に使用した肉です。別に食べても害はありません。聖書の教えは食べていいかどうか、で判断はしません。だれかをつまづかせるのか、それとも誰かを神様に近づけるものか、で判断しています。偶像に供えたものについて聖書は次のように言っています。
(1コリント	8:8-9)	
しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。
(1コリント	10:23)	
すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。
(1コリント	10:27-28)	
もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。
②「血と絞め殺したもの」を避けることも律法を大事にするユダヤ人への配慮です。律法は血を食べてはならないと教え、それゆえにユダヤ人たちは血抜きが十分でない肉を食べることはありません。良心の呵責を覚える人たちを苦しめないようにするための配慮です。
イエス様の福音に反対することは譲れませんが、それ以外のことは相手に合わせて隣人をつまづかなせないようにと聖書は教えています。
(ローマ	14:1-3)	
あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
誤解されたり、つまづきを与えないために、相手が神様に近づくために僕らは自由に自分のスタイルを手放すことができます。聖霊がそのような方だからです。イエス様の福音は変えることができません。しかし、文化の違いや細かな信仰生活のしきたりや文化は自由です。考えの違う相手を、「神がその人を受け入れてくださった」と聖書は言います。聖霊は真理に立ちます。そして同時に聖霊は文化や作法の違いを受け入れ、歓迎し、尊重します。ハレルヤ!
 
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