使徒28.23-31 神の国という希望
●聖書が教える神の国
コロナが収まらず、今までと全然違う世界になり、これからどうなって行くのか誰もわからない時代です。でも、聖書は闇の中の光です。希望のない時代でも希望を伝えています。それは「神の国が来る」ということです。主よきてください、という祈りは聖書の中にあります。「主よ、来てください。」(1コリント16.21)イエス様がもう一度この世界に来る、と聖書は言います。それは神の国が来る、のと同じ意味です。イエス様がこられてこの世界をご支配されるのが神の国。
イエス様は処刑されて、その後復活なさって何をしたか?答えは40日の間でしたちに神の国が来る、ということを教えました。使徒の働きの一番最初の方に書かれています。
(使徒1:3)
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
そして今日読んだ一番最後も神の国が来る、ということを伝えています。
(30-31)
パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、
少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。
イエス様の教えも実は神の国が近い、というのが中心です。一番最初に言われた言葉がこれです。
(マルコ1:15)
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
イエス様が一番最初に神の国が近くなった、とおっしゃって、そして、イエス様が復活されて天に帰る前に最後に40日間弟子たちに教えたことも神の国のこと。そして、パウロがどこででも伝えたことは神の国が来る、という希望です。
世界が混乱して不安と闇が増えていく時代の中で、聖書は今日も神の国が来る、という希望を伝えています。
(23)
そこで彼らは日を定めて、さらに大勢でパウロの宿にやって来た。パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。
神の国のことも、その王様であるキリストのことも「モーセの律法と預言者たちの書」に書かれています。「モーセの律法と預言者たちの書」とは旧約聖書です。
神の国とは、なんとなく死んだ後に行く天国、というイメージではありません。日本人だと極楽浄土とか、お彼岸のイメージと混ざって何となくポワーンと死後に行くところ、というイメージを作り上げることがあるけど、聖書によると神の国とは、リアルにこの地上に実現するイエス様が統治する世界のことです。イエス様の王国です。復活して肉体をもって、リアルにそこで私たちは生活します。
そして、イエスという人が神の国の王様だとパウロはそれを旧約聖書から説得します。
パウロの宿泊先には大勢のユダヤ人が集まり、パウロは彼らの聖典である「モーセの律法と預言者たちの書」つまり旧約聖書を読んで、その中で約束の王国を指し示しました。イエスについて、というのは、イエス様が約束の王である、と指し示し始めたのです。王がいなければ、神の王国は成り立ちません。そして、パウロは間違いなく、神の国を支配する王イエス様についての旧約聖書からを彼らに説得しました。
例えば、王様はベツレヘムで生まれる、ということです。
(ミカ 5:2)
ベツレヘム・エフラテよ。(…中略…)あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。
その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。
(イザヤ 7:14)
見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』(神が私たちとともにおられる)と名づける。
(イザヤ 9:6-7)
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。
(ゼカリヤ 9:9-10)
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。
それも、雌ろばの子の子ろばに。
わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。
戦いの弓も断たれる。
この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。
(イザヤ 53:3-4)
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
パウロは、彼らの聖典である旧約聖書を朝から晩まで辿って、イエス様が王であること、素晴らしい神の国が来るを説得しようとしました。
これは僕らにとっても希望です。
イエス・キリストは、神が来ると約束した王であり、しもべとなって軽蔑され、拒絶され、私たちの罪のために刺し通された、と書かれた旧約聖書が実現したことを、ある人は信じます。私も信じています。
しかも、他の預言では、キリストがもう一度こられるときに、神さまが意図したように地球が回復するのを見ます。砂漠が青々とした庭になり、砂漠にバラの花が咲き、乾いた場所に小川が流れるのを見ることになります。
(イザヤ 35:1-2)
荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。(…中略…)彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。
(イザヤ 35:5-6)
そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。
荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
パウロは一日中、神の国がどんなに素晴らしいか、ユダヤ人が信じているモーセの律法と預言者たちの書から説明しました。
これは希望です。そしてイエス様はその王です。
イエス様が約2000年前にこられたときに、神の国のしるしとして、多くの人たちを癒されました。やがて来る国の王であることのしるしでした。イエス様はもう一度こられます。その時には戦争や犯罪がなくなるのを見ることができます。苦しみや痛みがなくなるのを見ることができます。私たちはその王が再び来ることを信じています。どんなに世界が混乱しても神様のことばは必ず実現します。
信じた人たちはすでにイエス様を王とする国に入ってます。神の国は神様の支配、という意味でもあります。もうすでにクリスチャンは神様の支配に入っています。でも、まだイエス様が地上にこられて世界を治めるのを体験していません。すでに、と未だの間にいるのが今のクリスチャンたちです。
●信じずに癒されない人
(24)
ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった。
福音宣教の結果はいつもそうです。ある人は信じ、ある人は信じません。信じない人はどうなるか。
(ヨハネ 3:36)
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
とあります。ですから、私たちが何を信じているかは重要です。聖書によれば、私たちの運命はそれにかかっています。
「ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった。」自分はこの2つのどちらに属するのか」と自問してみるのもいいかもしれません。
神の国のことは信じるか信じないかです。信じない彼らにパウロは言いました。
(25)
互いの意見が一致しないまま彼らが帰ろうとしたので、パウロは一言、次のように言った。「まさしく聖霊が、預言者イザヤを通して、あなたがたの先祖に語られたとおりです。
聖書が言っている、というのと、聖霊が言っている、というのは同じこと。
聖書は神様の言葉ですか?という質問の答えは、聖書の言葉は聖霊が語っているから神様の言葉と言えます。イザヤ書が書かれたのは、聖霊が預言者イザヤを通して語ってくださった神様の言葉です。
(26-27)
『この民のところに行って告げよ。あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』
神様の国は癒しの国です。イエス様が王様として支配なさる国は基本的に病気はない。あったとしても癒される国です。でも、信じない人は神様の癒しもないと27節は言います。
人々は聞くには聞きます。見るには見ます。でも信じないのは、心が鈍くなり、耳が遠くなって、目は閉じているからです。その彼らは癒されることもない。救われることもない、と聖書は言います。ユダヤ人は熱心に聖書を勉強はしています。でも、心が閉じているので、それが芽を出し成長することはありません。
イエス様は神の国のことを聞いたら4種類の人の反応があるとおっしゃいました。1つは心が固くて、神の言葉を聞いて少しだけ芽を出してもそれ以上は受け入れず枯れてしまう人。2番目はこの世の事ばかりで覆われていて、成長せず枯れてしまう人。3番目は悪魔がみことばを取り去ってしまう人。そして4番目は100倍の実を結ぶ人。その話をなさるときに、イエス様はいつもイザヤ書の言葉を引用されます。
いつも信じる人と信じない人に別れます。喜びと希望を持って成長する人と枯れてしまう人に別れます。誰が心が固くて信じない人か、100倍の実を結ぶ人か私たちにはわかりません。でも、私たちは伝えます。それがイエス様の願いだからです。伝えて拒否されてもがっかりしすぎる必要はありません。聞いても聞かない人もいると最初から言われているからです。
最初はユダヤ人たちに神の国が来る、と素晴らしい希望が知らされました。でも彼らは受け入れなかったので、異邦人たちに先にこの知らせが告げられ、今も異邦人たちに伝えられています。異邦人たちは聞き従うことになります。
(28)
ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。」
28節は神の国のことを、神の救い、と表現しています。これを信じて従う人は救われる人です。
実際、日本人である僕らが聞き従い、神の国を待ち望むようになりました。だからと言ってユダヤ人たちが見捨てられたのではありません。
やがて、異邦人もユダヤ人も一緒にイエス様を褒め称える国がきます。そのように書かれています。でも先に異邦人です。
イエス様が再臨されるのはエルサレム、オリーブ山だと預言されています。そして、神の国は世界の回復ですが、イスラエルの回復でもあります。旧約聖書の予言は、神の国の王のことをイスラエルの王と言います。
(ミカ 5:2)
ベツレヘム・エフラテよ。(…中略…)あなたåのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。
弟子たちはイエス様が復活されたときに、今こそ、イスラエルを再興してくださるのですか?と聞きました。これは、イエス様あなたが、イスラエルの王として、国を立て直してくださるのですか?という意味です。イエス様はそれを否定していません。
(1章6-7節)
そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
異邦人が先ですが、イスラエルも救われます。ローマ人の手紙にイスラエルは決して見放されていないこと、そして、
「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
こうして、イスラエルはみな救われる」とあります。(ローマ11.25-26)
いつか?それは知らなくてもいいことです。神様が定めておられます。でも、必ず神の国はきます。
●まとめ
どんなに世界が暗くなっても神の国は来ます!闇は光に打ち勝ちません。コロナで全てが変わってしまっても希望はなくなりません。ますます待ち望みましょう。
初代教会の祈りはいつも主よきてください、でした。
イエス様もこう祈りなさい、とおっしゃいました。「み国がきますように」
黙示録の最後も主よきてください、という祈りで終わっています。
(黙示録 22:20)
これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
私たちも祈りましょう。み国がきますように。主イエス様、きてください。神の国はきます。全ては回復します!
●考えて見ましょう。
①聖書が教える神の国を信じることはあなたの人生をどのように変えるでしょう。
②信じないことが癒されないことになる理由は何でしょう。
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