会見の天幕とは神様が人間の間に住み、神様が人間と交わる聖なる場所です。しかも会見の天幕は移動式です。男子だけで60万人以上、総勢 200-300万人の人たちがカナンの地に向かって移動し、その中心にはいつも神様の会見の天幕がありました。会見の天幕を設営し、出発するときには解体して収納し、また次の場所に設営します。どこに行っても神様とお会いする会見の天幕を作るのがイスラエルにとって最優先事項でした。それがきちんとなされるためには秩序と役割分担が明確でなければなりませんでした。
神様はレビ族の中に氏族ごとにグループを分けて役目を明確に与えられました。
①天幕の幕とか、おおい、垂れ幕などの管理をするグループ→ゲルション族。
(25-26)
会見の天幕でのゲルション族の任務は、幕屋すなわち天幕と、そのおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕、 庭の掛け幕、それに幕屋と祭壇の回りを取り巻く庭の入口の垂れ幕、そのすべてに用いるひもについてである。
②契約の箱や燭台などの天幕の中に置く用具を管理するグループ→ケハテ族。
(31)
彼ら(ケハテ族)の任務は、契約の箱、机、燭台、祭壇、およびこれらに用いる聖なる用具と垂れ幕と、それに関するすべての奉仕である。
③天幕の板や柱や台などを管理するグループ→メラリ族
(36)
メラリ族に任じられた務めは、幕屋の板、その横木、その柱と台座、そのすべての用具およびそれに用いるすべてのもの、 庭の回りの柱とその台座、その釘とそのひもについてである。
ある人たちは釘を管理することに専念していました。この釘の人がいないとで台座を固定することができず、天幕が成り立ちません。また、ある人たちは燭台に専念していました。燭台がないと中は真っ暗で何もできません。また、ある人たちはおおいに専念しています。どの役目も神様とお会いする場所を作るための大事なものです。彼らは「私は釘を管理している」とは思わず「神様とお会いする聖なる場所を準備している」と思っていました。それぞれの役目は違いますが目的は一つ、神様と人が交わる場所を作ることです。どれが欠けても天幕は成り立ちません。
同じように、僕らも役目が与えられています。クリスチャンはみんな同じようなコピー人間ではありません。個性があり、神様から預かった賜物が全然違います。そのように役目も賜物も違うからこそみんなで協力して神様の住まいである教会を作り上げていけます。聖書は教会を人間のからだと各器官のようだと教えています。それぞれに違った役目や持ち場が与えられています。
(1コリント12:17)
もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
しかも教会の中に弱くて不要な人はいません。どの人にも大切な大事な役目を神様から預かっています。
(1コリント12:21)
そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
レビ族の中でも役目がそれぞれ違ったように、僕らもそれぞれ役目が違います。みんなが同じような役目をするのは間違っていると聖書は言います。
(1コリント12:29-30)
みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。
レビ人たちはみんな役目が違いました。でも目的は一つ、神様と人が交わる場所を作ることでした。同じように教会もみんな持ち場が違い、役目が違います。でも、大事なことは、全てが神様と交わり神様を愛し、神様から愛される場所を作るためです。どんな賜物も役目も神への愛、人への愛がないなら意味がありません。
(1コリント13:2)
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
今日も与えられた小さな役目を心を込めてしましょう。全てはその役目のためでなく、神様を愛するためです。愛を込めて与えられた役目を果たしましょう!
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