2022年12月23日金曜日

ローマ3.21-29

 あの教会のここが悪い、あの牧師のここが悪い、あの人のあそこが悪い、など他人を評価するのが僕らは大好きです。どちらが正しいか、と比べたがりますが、聖書が教えているのは「神の義(正しさ)」であって「人の義(正しさ)」ではありません。僕らが考えているようなランク付けや「差別はありません」ときっぱりと聖書は教えています。


21節から22節)

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました

すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義ですそこに差別はありません。


この箇所は何度も「神の義」と繰り返します。僕らの正しさとか、人の良さとか、性格が良いか悪いかとか、機嫌が良いか悪いかは関係がありません。僕らに与えられているのは「神の義」です


26

すなわち、ご自分(神様)が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分(神様)の義を明らかにされたのです


僕らは神様に赦されて無罪宣言を受けています。そのことを「義と認められる」と言います。


23節から24

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、

神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです



私たちが頑張ったとか、一生懸命祈っているとか、聖書の教えに従っているとか、よく献金しているとか、そのような自慢は完全に取り除かれています。「誇りは取り除かれた」と書かれています。栄光は神様だけです人間は行いとは関係なく神様からの義が与えられている、それだけです


27節から28

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです

人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです


僕らはいつも人を見て評価します。自分を見て自慢したり落胆したりします。他人を評価したがります。でも神様はそのよう人の義は関係ないと宣言しています。与えられているのは「神様の義」だけです。ハレルヤ!

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