あの教会のここが悪い、あの牧師のここが悪い、あの人のあそこが悪い、など他人を評価するのが僕らは大好きです。どちらが正しいか、と比べたがりますが、聖書が教えているのは「神の義(正しさ)」であって「人の義(正しさ)」ではありません。僕らが考えているようなランク付けや「差別はありません」ときっぱりと聖書は教えています。
(21節から22節)
しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。
この箇所は何度も「神の義」と繰り返します。僕らの正しさとか、人の良さとか、性格が良いか悪いかとか、機嫌が良いか悪いかは関係がありません。僕らに与えられているのは「神の義」です。
26節
すなわち、ご自分(神様)が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分(神様)の義を明らかにされたのです。
僕らは神様に赦されて無罪宣言を受けています。そのことを「義と認められる」と言います。
23節から24節
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
私たちが頑張ったとか、一生懸命祈っているとか、聖書の教えに従っているとか、よく献金しているとか、そのような自慢は完全に取り除かれています。「誇りは取り除かれた」と書かれています。栄光は神様だけです。人間は行いとは関係なく神様からの義が与えられている、それだけです。
27節から28節
それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。
人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。
僕らはいつも人を見て評価します。自分を見て自慢したり落胆したりします。他人を評価したがります。でも神様はそのよう人の義は関係ないと宣言しています。与えられているのは「神様の義」だけです。ハレルヤ!
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