どうしたら良いか分からなかったら「神様に聞く」ことです。神様は必ず答えてくださいます。
モーセは分からないことはいつも神様に聞いていました。ある時、人々はモーセに質問しました。
(7-8)
その人たちは彼に言った。「私たちは、人の死体によって汚れていますが、なぜ、イスラエルの子らの中で、定められた時に主へのささげ物を献げることを禁じられているのでしょうか。」モーセは彼らに言った。「待っていなさい。私は主があなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。」
分からないこと、知らないことは恥でなく、悪でもなく良いことです。神様は必ず具体的に答えてくださいます。そして神様は具体的に導いてくださる神様です。イスラエルが荒野を40年間旅していた間、神様はわかりやすく一緒にいてくださいました。
もちろん神様は見えない方ですが、それでも神様の栄光が昼は雲として会見の天幕をおおっていたし、夜はそれは火のように見えました。
(15-16)
幕屋が設営された日、雲が、あかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって朝まで火のようであった。
いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。
神様は彼らの先頭に立って移動し、イスラエルはいつもそれを見てついて行きました。
いつ出発するのか、いつ止まるのか、それは神様が主権を持っておられます。
(17-21)
いつでも雲が天幕から上るときには、その後でイスラエルの子らは旅立った。また、雲がとどまるその場所で、イスラエルの子らは宿営した。主の命によりイスラエルの子らは旅立ち、主の命により宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営した。
雲が長い間、幕屋の上にとどまるときには、イスラエルの子らは主への務めを守って、旅立たなかった。
また、雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。
雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らは旅立った。昼でも夜でも、雲が上れば旅立った。
二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは旅立った。
彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命により、主への務めを守った。
イスラエル人たちはいつも神様の雲が動くか動かないかを見続けていたことがわかります。
「もうこの場所も長いしそろそろ新たな地に向かって出発する時ではないか」とか、「もう少し落ち着いてから行こう」など僕らはいろんな意見を持ちます。でも大事なのは神様に聞くこと、そして神様のタイミングに従うことです。彼らは「雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らは旅立った。」とあります。人間側の都合で判断するのではなく、いつも神様の動きを見てしたがって移動しました。逆に同じ場所にずっと止まる時もありました。「一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは旅立った。」とあいります。
今日も僕らは神様に導かれています。聖書を通して、教会を通して、聖霊の導きの中で神様は具体的な答えを下さいます。また、与えられている状況を通しても神様はわかりやすく導いてくださいます。大事なのは僕らが神様の導きに素直に従うことです。タイミングがいいか悪いか、それは人間が決めることではなく、神様が判断なさることです。
今日もシンプルに神様に質問しましょう。そして、神様の導きに素直に従いましょう。神様は今日も聖書を通して語りかけ、導いてくださっています。神様の臨在の場所は今は幕屋ではなく僕ら自身です。(1コリント6.19)今日も神様は僕らの中にいてくださいます。人間の都合ではなく、神様こそが全ての主権車です。今日もシンプルに神様の導きに従う僕らでありますように!
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