僕らは神様に対して素直な疑問や不満を言えない、言ってはいけない、と言う誤解があるようです。でも聖書は「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。」と言います。(詩篇62.8)預言者エレミヤも神様に本音をぶつけています。なんで悪者がのさばってるのですか?彼らを殺してください、という本音です。
(1-2)
「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。
あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。
(3)
どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。
エレミヤは直球で神様に疑問と願いをぶつけています。「あなたが(神様が)」悪者たちを植えて、彼らは成長して繁栄してます、なぜですか?とです。神様は僕らの心の全部を知っておられます。隠す必要はないし、隠せません。むしろ僕らは本音で神様と対話するように神様が願っておられます。
「どうして悪者が栄えるのですか?」という問いへ答えは、「エレミヤ、あなたはもっと苦しみを通ることになる」というものです。
エレミヤの今の苦しみはまるで、徒歩の人と競争して疲れているようだ、とおっしゃいます。この苦しみはこれはまだ平穏なうちだ、というのが神様の答えです。
(5)
「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。
もっと辛い苦しみと戦いとは、信頼して愛する家族から、身内の人から苦しめられることです。
(6)
あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らでさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ。だから彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。
敵から攻撃されているうちはまだ耐えられます。でも、親しい家族から、信仰の仲間から攻撃されるのは辛いです。神様はそのような時代になるから、だから忍耐しなさい、とおっしゃいます。
ある説教で読んだ話です。あるお金持ちの悩みを牧師が聞いたそうです。
そのお金持ちの悩みは、みんな自分にすり寄って、みんな愛想をよくして笑顔で自分に近づいてくるんだけど、彼らは自分を愛しているのか、私に興味があるのか、それとも自分が持っているお金が好きなのかわからない、という悩みでした。
同じように、僕らも神様が祝福してくれるから、神様が富と繁栄をくれるから、というのなら、それは神様を愛しているのではなく、繁栄やお金や成功への愛です。試練の時に僕らは本当に御霊によって神様を愛し信じるようになったのか、それとも利益のために神様を使ってるだけなのかがわかります。
御霊がくださる信仰は状況が良くても悪くても神様を愛したたえます。御霊によらない損得や計算から出てるものなら、状況が悪くなったら神様から離れます。当然です。ところが、御霊がくださる信仰は僕らを育て、試練を通してますます強くされて行きます。神様は僕らに苦しみの中を通らせ、状況によって左右されない強い信仰へと育ててくださいます。
黙示録で神様に褒められている教会は忍耐した教会です。人の損得や力でなく、御霊による愛は忍耐することです。
(黙示録2:2-3)
「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
エレミヤの時代は国中がおかしくなって神様から離れ、苦しむ時代でした。同じように、この世の終わりにはそのような時代が来ると聖書は伝えています。だから忍耐しなさい、と伝えます。
愛する家族や伴侶、信頼していた人に裏切られるのは一番悲しいことです。これは、まさに神様の悲しみでもありました。神様はエルサレムとそこに住む人たちのことを7節で「私の家」「私のゆずりの地」「私が心から愛するもの」と言います。神様は愛する息子娘たちから裏切られ苦しめられます。
(7-8)
わたしは、わたしの家を捨て、わたしのゆずりの地を見放し、わたしが心から愛するものを、敵の手中に渡した。
わたしのゆずりの民は、わたしにとって、林の中の獅子のようだ。それはわたしに向かって、うなり声をあげる。それゆえ、わたしはこの地を憎む。
愛する伴侶のような人たちが裏切り歯向かうことは、誰よりも神様ご自身が苦しむことです。しかも神様はその義と聖さのゆえに彼らを敵の手中に渡します。これは神様にとって最大の悲しみ苦しみです。エルサレムを神様は手放し、裁き、滅ぼすことになります。自分の手で愛する我が子を滅ぼさなければならないのは神様にとって死ぬほど苦しいものです。
(9)
わたしのゆずりの民は、わたしにとって、一羽の斑の猛禽なのか。それを猛禽どもが取り巻いているではないか。さあ、すべての野の獣を集めよ。それらを連れて来て、食べさせよ。
一羽のまだらの猛禽がターゲットとなって他の鳥に食べられ、殺されていくように、神様が愛するエルサレムの人たちはまるで野鳥が群がって殺されて食べられていくかのようです。具体的には外国に囲まれて惨殺されて行きます。それを見るのは苦しすぎます。自分を裏切るものに対して、聖なる聖なる神様は正しく滅ぼさなければならない、と言う苦しみです。
神様は悪と共存することができません。神様は悪を滅ぼさなければなりません。
これはイエス様の十字架の苦しみを見なければならない神様の愛と苦しみです。
愛する神様のみ子、独り子を人間の罪のために殺さなければならない神様の苦しみがここにあります。神様は罪を放置することはないし、正しく裁きます。これが神様の義です。同時に神様は人間を愛し、救いたいと願う神様です。それゆえ、愛するイエス様にその罪の呪いを受けさせました。これは神様には耐えられないほどの苦しみでした。
イエス様に罪はありません。神様を裏切ったのは私たちです。その怒りを神様はイエス様に負わせました。ここに愛があります。愛は忍耐です。愛する人たちが裁かれるのは何よりも苦しいものです。
その苦しみをイエス様が背負ってくださいました。愛するひとり子が身代わりに裁かれ死んで行く苦しみを神様が体験してくださいました。
僕らはこの恵みで救われました。
神様は罪人の裁きを悲しみ苦しむ神様です。そしてこの世の終わりが近くなるにつれて、僕らクリスチャンもその苦しみに参加します。
信じるのはご褒美があるから、いいことや楽なことがあるからではないです。この世を愛するゆえの忍耐や試練もあります。僕らにもあります。忍耐は愛です。忍耐しましょう。
(1ペテロ 4:12-13)
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
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