「赦しなさい」という教えは有名ですが、一回や二回なら赦せるけど、それがいつも続くと耐えられないのが僕らの現実です。ペテロはイエス様に質問しました。
(21-22節)
ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
「七度を七十倍するまで」の意味は「完全に、ずっと」という意味です。で、「そんなの無理!」と思うのが人間です。そんな僕らにイエス様はその理由と、どうして完全に赦すことができるのか、たとえ話で教えてくださいました。
(23-27節)
このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
この話は神様の前での人間を現しています。借金は罪を現しています。神様の前では心の中だけで思った罪も罪です。僕らも神様に清算を求められます。罪のリストを突きつけられると何もできません。解決策はありません。
主人は「自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように」と言いますが、家族ごと奴隷として身売りしても足りません。1万タラントとは当時の年収の20万倍くらい、と言われています。20倍ではありません。20万倍です。ひれ伏すしかない惨めな姿を見て「主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」とあります。
この話で「1万タラント」は王様であっても大きすぎる額です。当時のヘロデ王の年収は100タラントだったと言われています。年収の100倍の金額を免除することは、自分の生活が破綻することです。
この王様はイエスキリストのことです。借金を赦すことは簡単ではありません。莫大な罪をイエス様が背負って苦しみ、十字架の上で支払ってくださいました。十字架の上での最後の言葉は「完了した」ですが(ヨハネ19.30)これは「支払った」という意味です。
罪は今日も毎日出てきます。そして、イエス様は今日も天で赦しの祈りをし続けてくださっています。だからイエス様は言われます。
(コロサイ3:13)
互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
たとえ話では、他人を赦さない人の話が続きます。
(28-35節)
ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリ(100日分の日当)の借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
20万年分の年収の額が免除された人は100日分の日当を返さない人を許しませんでした。
イエス様の莫大な赦しを知り感謝する人だけが他人を赦す人になれます。
他人を赦すチャンスは毎日いくらでもあります。毎日さばいたり、裁かれたり、傷つけられたり、傷ついたりします。そしてそれはイエス様の十字架の苦しみを思い出すチャンスです。
イエス様はこう祈りなさい、と言っておられます。
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します。」(マタイ6.12)
今日もイラっときたらイエス様の苦しみを思い出しましょう。そして祈りましょう。「赦します」と。
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