「教会」と聞くと建物のイメージがありますが、建物という意味はありません。教会は神様が集めてくださった集会とか、群れ、という意味です。イエス様は「わたしの」教会を建てるとおっしゃいました。「牧師の」教会でも「信徒の」教会でもなくありません。「イエス様の」教会です。しかも、教会は天の御国と繋がっていて、さらに、教会は死よりも強いと言います。その「カギ」を与えるとイエス様はおっしゃいます。
(18-19節)
わたしはこの岩の上(イエス様を救い主と告白する信仰の上)にわたしの教会を建てます。ハデスの門(死んだ人が行くとろ)もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
ペテロだけに特別なかぎが与えられた、とも読めますが、18章によると、天の御国のカギは2人でも3人でも集まるところに与えられています。
(マタイ 18:18-19)
まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
イエス様の教会はイエス様と一つです。イエス様こそ天の王であり、地の王です。全ての権威を持っている王の王です。そのご計画や御心を実際に行うためにカギが預けられているのが教会です。だから、教会はイエス様のみことばを求めて、従います。イエス様の思い通りになるように、イエス様の名前を預けられ、イエス様の名前で祈り行動するのが教会です。ある人は「東栄福音キリスト教会は天の御国の札幌支店、モエレ営業所みたいだ」と言いました。世界のトップである社長の方針をよく聞いて、それに従うのが良い営業所です。ですが、「こんな僕らに天のカギを預けて大丈夫?」と心配にもなります。そんな僕らに、カギを預かる人たちがどうすればいいか書かれています。
(24-25節)
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
自分を捨てるとか、十字架を負うとか、暗ーいイメージがありますが、この箇所は僕には明るいメッセージに聞こえます。実はこれこそが希望に満ちた命と力に出会う方法だし、判断を間違わない方法です。
なぜなら、僕らが考える自分の生き方、自分のこだわり、自分の好み、自分の計算、経験、計画は神様の前では間違っているし、小さいし、暗いし、その先に命がないからです。
むしろ、その考えは手放し、イエス様と一緒に自分は死んだと認める人こそが、自分の考えを遥かに超えた天の命、考え、計算、計画が与えられます。本当の命、本当の力、真理は自分の中にはないし、出ません。
自分はこう思う、ああ思う、こうだああだ、とこだわってる時は、実は最も自分らしくありません。そこには高ぶり、絶望、罪、偏見が混ざっています。神様は本来の自分らしく生きるようにと願っておられます。その姿は、神様に似せて作られた僕らです。イエス様を信じた人は、イエス様に似せてますます新しくされていくのが本来の姿です。
「十字架を負う」とは、自分は死んだと思うことです。ところが、その時に本来の命がスタートし、天の御心が僕らの心に与えられます。
(ローマ 6:4)
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
(ローマ 6:11)
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
キリストが言われることを僕らもするようになります。しかもそれはロボットとか操り人形ではなく、本来の自由な、生き生きとした姿です。自分は死んだと思うことは、喪失する悲しい生き方ではなく、喜びと希望と命に満ちた生き方です。
(25節)
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
もちろん、イエス様に従うことは、苦しみも迫害もあります。けれどもそれもイエス様と一緒にです。僕らは天の御心を地上でするカギを与えられています。地上のことを思わず、自分はイエス様と死んだと思う時に、新しい天の命が注がれ、真理が与えられます。「自分メガネ」を外して「イエス様メガネ」をかけるようです。見えなかった真理が見えるようになります。
今日も自分は0パーセント、イエス様が100パーセントの喜びが満ちますように。
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