カタチや証拠を強く求めるのは、疑っているし、信じたくないからです。当時の聖書の指導者たちであるパリサイ人たちやサドカイ人たちは、イエス様に証拠としての奇跡を要求しました。
(1節)
パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。
本当に相手を信頼している時には証拠を出せとか見える形を出せ、とは思いません。相手を愛さず、信頼しない時に見える形や証拠を求めます。そのことを「悪い、姦淫の時代は証拠としての奇跡を求めています」とイエス様は言われます。(4節)まるで夫婦が相手を疑い、信頼せずに浮気をしているかのように、神様を疑いキリストを疑い、信頼しないで他のものに浮気している状態です。
イエス様が与えてくださる唯一のしるしは「ヨナのしるし」でした。
(4節)
悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」
ヨナのしるしとは、旧約聖書に登場する預言者ヨナが3日間海に沈み、魚の腹にいて、3日目に地上に出てくる話です。
同じように、イエス様も殺されて3日目に墓から出てきます。
これは、イエス様は死よりも強い権威を持っているしるしです。
イエス様自身、「わたしはいのちです」と何度も言われています。死はイエス様にとって脅威ではありません。いのちそのものだからです。イエス様が死から復活されたことは唯一の、そして最高の証拠としての奇跡です。
パリサイ人たちは見えるカタチを求め、儀式とか外見を熱心に整えました。サドカイ人は永遠のいのちや、死者の復活、天使の存在を否定しました。目に見える物しか信じない人たちです。神様を信頼するよりも、見える儀式や奇跡を信頼することをイエス様は「偽善者」と言われました。イエス様はそのような彼らの教えに「よく気をつけなさい」とおっしゃいます。
(6節)
イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」
僕らも、イエス様を信頼するよりも、「私が◯◯をしているから」「お祈りのをよくやっているから」など、見えるカタチや行いだけを求めてしまっていないか、よく気をつけなさい、と言われているかのようです。
この時の弟子たちは、目に見えることしかわからなかったようです。「誰がパンを忘れたのか」など、目に見えることだけが彼らの全てでした。
(7-8節)
すると、彼らは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ。」と言って、議論を始めた。イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。
イエス様にとってパンが幾つあるか、ないか、など小さなことです。何の問題でもありません。
弟子たちは、つい最近イエス様によって少ないパンが増やされ、満腹したばかりです。だのに、弟子たちは忘れて「私たちがパンを持って来なかったからだ。」と心配します。イエス様は言われます。
(9-11節)
まだわからないのですか。覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」
むしろ気をつけるべきことは、目に見えるカタチやモノを求めてしまうことです。「私は◯◯したから、神様も祝福してくださいね」とか、「◯◯できなかったから悪いことが起きた」などなど、行動次第で神様が祝福してくれたり、悪いことを与えたりするかのように思うことも誤解です。自分の行動や形にだけに依り頼むことはまさにパリサイ人やサドカイ人の教えです。
(12節)
彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。
主に信頼することだけで十分です。僕らが見えるものや形に振り回されず、今日もいのちそのものであり、全ての王であり支配者であるイエス様に信頼して委ねましょう。主こそ全ての権威をお持ちです。心配しなくても大丈夫です。主は今日も一緒にいてくださいます!
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