イエス様はカナン人の娘を癒されました。カナン人とは、当時「あの人は汚れ呪われた残念な人たち」と誰もが思っていた人です。でも、イエス様は身分よりも心からの真実な信仰を喜んでおられたことがわかります。イエス様はその女性に「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と言われました。そしてその娘は癒されました。(28節)
今日の場所も見下された異邦人の土地です。プライドのある人にとっては過ごしたくない場所でした。(同じことを書いているマルコの福音書で異邦人のデカポリス地方だったと分かります。)それでもイエス様は全ての人たちを癒されます。
(30-31節)
すると、大ぜいの人の群れが、足なえ、不具者、盲人、おしの人、そのほかたくさんの人をみもとに連れて来た。そして、彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをおいやしになった。それで、群衆は、おしがものを言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て、驚いた。そして、彼らはイスラエルの神をあがめた。
癒された異邦人たちは「イスラエルの神」をあがめました。さらに、イエス様は癒された人たちが空腹なことを「かわいそう」と言われます。「かわいそう」というのは、相手の状況は自分のことのように思うことです。
(32節)
イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」
ちょっと前も(14章でも)何もない場所で「群衆に食べ物がない」という危機がありました。その時は弟子たちが率先してイエス様に提案しました。でも、今回は弟子たちは何も言いません。ユダヤ人の言い伝えでは、異邦人と食事をすることは禁じられています。弟子たちにとっては「交流が禁止されている異邦人」であっても、イエス様は率先して「かわいそうに」「どれぐらいパンがありますか。」と対応されます。
イエス様が自分のことのようにかわいそうに思う人は身分に関係ありません。さらにイエス様が関心を持っておられるのは霊的なことだけではなく、体のことも食料のことも、全部です。神様の願いは心も魂も体も健康でいることです。(3ヨハネ1:2)霊的な健康と肉体的な健康に優劣はありません。両方がセットで人間です。全ての人が神様にとって大切な人です。その差はありません。少しのパンと小さい魚を感謝して弟子たちに与え、弟子たちは群衆に配りました。
(34-38節)
すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男四千人であった。
イエス様は全ての人の王であり、全ての人の神です。◯◯人だから、とか、◯◯教の人だから癒さないとか、与えない、ということはありません。イエス様は僕らが考えるよりもずっと大きな方です。イエス様は僕らを愛してくださいます。霊的なことだけでなく生活全部を自分のことのように思ってくださっています。そして、信仰者であってもなくても、全ての人を愛しておられます。僕らの目がますます開かれ、イエス様の心が僕らの心とされますように。
(マタイ5:45)
天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
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