イエス様の時代、儀式やルールを重んじるパリサイ人という人たちがいました。彼ら「私は選ばれたイスラエル人である」「私は儀式を丁寧にやっている」などなどいろんなプライドがありました。そのように自分の身分や行いを誇る人たちに、イエス様は次のように言われます。
(マタイ15:7-9)
偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」
口先では「神様、神様」と言うけど、実際は自分の身分や行いを誇っている人たちの礼拝を「無駄なこと」「虚しい」とおっしゃいました。それとは反対に、身分も立場もないけど、ただイエス様だけを求め信頼するカナン人の女にイエス様は言われます。
(28節)
「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」
カナン人とは神様に呪われた代名詞のような人たちでした。カナン人、というだけで汚れてると思われていたのに、悪霊に取り憑かれたカナン人なら最悪です。そのような娘を持つカナン人女性がイエス様に懇願しました。
(22-23節)
すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
この女は、自分は神の祝福を受けない者、汚れた者であることを認めながら、必死にイエス様にすがりついています。
イエス様は最初彼女を完全に無視されました。神様の救いとか祝福は、イスラエル人→次に異邦人(外国人)、というのが聖書が教える順番です。イエス様はイスラエル人のことを「羊」「子どもたち」と呼んでいます。逆にカナン人のことを「犬」と呼んでいます。「犬」は汚れた人、という蔑称です。愛する羊や子ども達が先です。カナン人の女を助けることは、まるで汚れた犬に餌をやるような行為です。
(24-27節)
しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
普通は、「犬」と呼ばれてがっかりする場面です。ところがこの女性は「その通りです」と言います。自分は落ちたパン屑を食べる犬のような卑しい者だと認めました。でも、神様がくださる恵みなら、テーブルから落ちた屑でも十分です、という告白です。それを聞いたイエス様は言われます。
(28節)
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
彼女は国も身分も育ちも悪いと認めていました。でも神様の恵みはもっと大きいと確信していました。犬同然の自分に神様のひとかけらの恵みさえあればそれで十分です。イエス様はその信仰を喜んでおられます。
身分にも行いにもよらず、ただイエス様の恵みに信頼する人は主に喜ばれます。自分の汚れを認め、自分の汚れや罪を認める人は幸いです。身分も、行いも肩書きも必要ありません。ただ、イエス様にひれ伏して求めるだけです。
イエス様は言ってくださいます。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」
0 件のコメント:
コメントを投稿