時間とかお金とかモノに対して、「僕の、これしかない」と思うのと、「これもあれも神様からの預かりもの」と思うのでは全然違います。
ある時、何もない田舎で成人男性だけで5000人くらいの人(女性や子どもを入れると一万人-2万人)が食べ物がない、という事態が起こりました。このまま何もしないと危険です。明るいうちにすぐに近くの村まで移動させるようにと弟子たちはイエス様に提案しました。ところがイエス様は「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」とおっしゃいます。
(15-17節)
夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
イエス様はその少しのパンを持ってくるように言われました。そして、食べ物を喜び、祝福しました。
(18-19節)
すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
祝福するという言葉を辞典で調べると、神様に感謝し、賛美し、ほめるという意味です。
イエス様は5つのパンが与えられています、と神様に感謝し賛美しました。
弟子たちは「これしかありません。」と言いますが、イエス様には「神様ありがとうございます」と賛美と感謝と祝福をささげました。
僕らは神様にちょうど良いものを預かっています。僕らのお金もモノも時間も力も全部神様からの預かりものです。聖書は僕らに「何か、もらったものでないものがあるのですか。」(1コリント4.7)と言います。
神様は僕らを用いて、僕らに預けたものを使って人を助け養おうとしておられます。イエス様は弟子たちに「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」とおっしゃいました。僕らの力は小さくても、神様にささげる時に神様は大きく用いてくださいます。聖書を読んでいくと、神様は神様「だけ」で何かをすることは少ないことに気がつきます。ほとんどが弱い人間が用いられて神様の助けや愛がなされて行きます。
僕らは神様の仕事を任されています。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」と聖書は言います。(1コリント12:27)受けるより与えなさい、互いに愛し合いなさい、仕え合いなさいという教えはお金持ちに言われているのではなく、暇な人に言われているのでもなく、時間もお金もない弟子たちに言われています。
イエス様は預けている少しのものを「それを、ここに(わたしのところに)持って来なさい」とおっしゃいます。(18節)僕らが頑張るのではなく、イエス様に差し出す時に、イエス様はそれを祝福し喜び感謝して増やしてくださいます。
(20-21節)
人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
預かってる小さなものを感謝しましょう。そして、それを差し出しましょう。イエス様の喜びが、天の喜びが地上にも降って来ます。ハレルヤ!
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