神様は最初から人間を男と女に作られました。そして全然違う2人が一体になるようにされました。男女が一つになるのは、まるで黄色と赤の絵の具が混ざってオレンジになるようです。もう戻せないし、「もはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」とイエス様はおっしゃいました。これが神様が願っておられる結婚です。
(3-6節)
パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され」ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」
男女が愛し合って一つになるのは、神様に似ている姿です。神様も一人の方ですが、父である神様、子であるイエス様、そして聖霊様が交わりを保ち、互いに献身して「一人の方」です。このことを三位一体と言います。その神様に似るように、人間は男と女が神様と交わりながら互いに愛し献身して一つになるように作られています。
結婚は相手に対する愛と献身が必要です。頑固に「私のやり方」に固執していると2人は一体になれません。それぞれが神様と相手のために自分を捨てて献身し、三者が一つとなって行くのが人間の本来の姿です。創世記に人間が作られた時のことが書かれています。
(創世1:26-27)
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。(…中略…)神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
相手の喜びは自分の喜び、相手の悲しみは自分の悲しみです。相手は自分そのものです。イエス様は「彼らはもはやふたりではなく一体なのです。」(6節)と言われました。
ところが、人間に罪が入った時からすべての人は神様のみ心から離れました。結婚しても自分の色を主張したがり、思い通りにならないと「別れたい」と思うのが現実です。相手が他の人ならうまく行くと思うのが人間です。パリサイ人たちは当然離婚はオッケーですよね、とイエス様に質問しました。
(3節)
3パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」
当時の人々は理由があれば離婚は当然と考えていたし、離婚は権利とさえ思っていたようです。もしイエス様がこれと違うことを言えば、イエス様を支持する人が激減するし、そのようにイエス様を貶めるための質問でした。イエス様はその質問に「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」(6節)と答えます。当然パリサイ人たちは納得しません。
(7-9節)
彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離緑状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」
イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」
離婚は人間の罪、頑固さゆえの結果、被害を最小限に止めるための最後の道、逃れの道としての許可だとイエス様はおっしゃいました。離婚状には2-3人の証言が必要で、さらに「これ以上相手を責めたり縛ったりしない」という約束が書いてあったそうです。罪は相手を苦しめ傷つけます。離婚に関する律法は不要な被害が広がらないための逃れの方法として神様が与えてくださったものです。(申命記24.1)つまり、罪深い人間への神様のあわれみです。
だのに、当時の人たちは離婚状を渡せば離婚できる、メンバーチェンジができる、他の人とならうまくやれる、と考えたようです。イエス様はそれこそが姦淫の罪だと言います。
(9-10節)
だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」
弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」
相手が変わればいい、とか、別れればいい、他の人とならうまく行くというのは間違いです。
罪はイエス様だけが引き受け、イエス様の血によってだけ赦されきよめられます。罪人同士の結婚は、相手の罪も自分の罪も日々イエス様に告白して赦していただき、もう一度赦された罪人同士として相手を受け入れるのがイエス様の願いです。この話は18章の続きです。18章は兄弟が罪をした場合、「7を70倍するまで」つまり「完全に何度でも赦しなさい」と言われました。そして、赦せない相手を赦すためには、まず自分が何回神様を裏切ったか、何回相手を傷つけたか、何回赦してもらったかを考える時にだけ可能になります。
僕らは自分の権利ばかりを要求します。でも、イエス様の十字架の愛を知るほどに自分の権利や要求から自由にされます。イエス様の十字架の愛を知る時に、自分を捨て、イエス様に自分を明け渡し、与えられた伴侶に自分を明け渡そうと思います。結婚は神様と相手への献身と愛です。
(5-6節)
そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」
三浦綾子さんは「家庭は愛の道場」と言いました。愛とは相手を赦し受け入れることです。愛とはイエス様の十字架の犠牲に感謝してそれを現すことです。結婚は神様の憐れみと赦しを現す実践場です。近い人ほど醜い罪の姿が出てしまいます。自分が何度も赦されてきたように、相手を赦し、受け入れ、尊敬し従い合う結婚生活こそが、神様のみこころです。
僕らの生活の中心が十字架によってのみ無罪とされる福音でありますように。行いによらず、福音によりますように。
0 件のコメント:
コメントを投稿