この宇宙も地球も神様のものです。そして、それを管理し守りお世話するのが僕ら人間の役目です。(創世記1-2章)ところが、人間は罪を犯し、高ぶり、まるで自分が神様みたいに思い上がります。(創世記3章)神様のこの世界をまるで自分のものであるかのように搾取し、自分が所有者であるかのように振舞い、まるでこの世界の栄光を人間のものにしてしまうのが罪です。栄光も力も本来は神様のものです。
同じように、イエス様の時代の神殿は天地を作られた神様だけを賛美し礼拝する場所でした。それが本来の神殿でした。でも、神殿を管理する祭司長たち、長老たちは神様よりも自分の権利、自分のもうけ、自分立場を求め、神様のものを奪っていました。
イエス様はそれをたとえ話で言われます。
(33-36節)
もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。
この主人は神様を現しています。そして、ぶどう園の農夫たちは神様に管理を任された人々です。
神様こそこの世界の栄光と賛美を受ける方です。だけど、僕ら人間は自分の栄光、自分の権威を求め、神様に栄光を捧げようとしません。
農夫たちのところに遣わされたしもべは、神様から遣わされた預言者たちです。イスラエルには神様からの預言者たちが多く遣わされ、神様だけをあがめ、賛美し、神様に従うように伝えました。が、人々はそれを拒み、殺された預言者は多くいます。
最後に神様は一人子であるイエス様をこの世界に遣わされました。
(37-39節)
しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。
僕らの罪は神様よりも自分のもうけ、自分の立場、自分のメンツを求めることです。それに逆らうものは神様の預言者であっても、神様のひとり子イエス様であっても殺します。当時の人々はこのたとえ話の数日後、本当に十字架の上でイエス様を殺します。これが人間の傲慢さの現実です。
この話は当時の神殿の管理運営の権威を持っていた祭司長、長老たちに向けて話されました。彼らは表面では神様を礼拝しているように見えても、実際は自分の利権、自分の権威を主張し、拝み、邪魔する者は殺します。
しかし、神様はそのままにする方ではありません。最後には正しく報復し、正しく世界をさばく方です。
(40-41節)
このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」
僕らの持ち物、人生、すべての能力や人間関係も、神様からの一時預かりです。所有者は神様です。僕らはそれを管理して神様に栄光をささげる役目を与えられています。
僕らが威張って神様のものを奪うことがありませんように。周りの人に権威を振りかざし、気に入らない人を殺すことがありませんように。イエス様は「御国が来ますように」と祈りなさいとおっしゃいました。御国とは、神様のご支配、神様が支配する国のことです。今日も僕らではなく、神様が支配者です。僕らはしもべです。神様にお返ししましょう。すべての栄光は神様のもの、そしてイエス様のものです。ハレルヤ!
(黙示録5.13)
御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。
0 件のコメント:
コメントを投稿