イエス様に全ての権威がある、と聖書は言います。僕ら人間は支配者でも王様でもありません。
だのに、僕らは自分の力、権威を持ちたがり、周りを自分の思い通りにしたいと思うのが人間です。イエス様を忘れると、僕らは途端に自分の所有のように「私の教会」「私の家」「私の職場」「私の子ども」「私の◯◯」と支配したがります。イエス様の時代、祭司長、長老たちは神殿を支配し、「私の神殿」と思っていたようです。神殿でイエス様は商売人たちを追い出したり、病人を癒したり、教えたりしていました。彼らにとってイエス様は排除すべき許せない存在でした。
(23節)
それから、イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」
この質問は「この神殿は私たちの権威によってだけ運営されているのだ」と言っているのと同じです。イエス様は逆に質問します。
(24-27節)
イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天から(神様から)ですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」
そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません。」と言った。
バプテスマのヨハネは神様から遣わされた預言者です。ヨハネはイエス様を救い主だと言っていました。ヨハネを神様からだと認めることは、イエス様を認めることです。イエス様の権威を認めたくない彼らはヨハネが天から遣わされたと認めません。でも同時に、ヨハネは群衆に支持されていました。もし彼を「天からではない」と否定すると群衆からからの支持を失います。
祭司長たちの関心は、どうしたら自分がよく思われるか、自分の権威や立場が守られるかばかりでした。
神様を信じている、と言いつつ、実は自分のメンツや権威や支配力ばかりを求めている人は、まるで口先だけの信仰者のようです。イエス様はそれをたとえ話で教えてくださいました。
(28-32節)
ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。
兄は口だけです。実際は父を敬ってはいません。逆に、弟は誰も見ていないところで悪かったと思って父に従いました。イエス様が求めておられるのは口だけ、表面の信仰ではなく、誰も見ていなくても従う本物の信仰者です。表面は悪くても、誰にも認められなくても、見ていないところで悔い改めて従う人を神様は求めておられます。この弟は、悔い改めて従った当時の罪人たちのようです。
(31-32節)
「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。
僕らは神様に問われています。自分たちが作り上げた権威やメンツを優先しているのか、それとも、誰にも見られなくても、評価されなくても、心から従おうとしているのかです。権威はイエス様のものです。僕らのものではありません。「私の教会」「私の家」「私の職場」「私の子ども」「私の◯◯」ではありません。全部がイエス様のもの、イエス様こそ全ての権威者です。全ての権威を明け渡しましょう。イエス様こそ全ての王、全ての支配者です。
ハレルヤ!
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