もしも神様を知らなければ、僕らは見えるものに頼り、それによって幸せになろうとします。お金があれば幸せになれるとか、あの人がいれば、とか、業績を出せば、人に認められれば、酒さえあれば、などなど何かに頼って自分を支えようとするのが人間です。また、それらを手放すことを恐れ、固執し仕えます。ところが聖書は「あなたがたの神、主だけを恐れなければならない。主はすべての敵の手からあなたがたを救い出される。」(39)と言います。見えるモノや人や能力は神様からの恵みです。それらを神のようにしてはならないし、それに仕えてはならない、と聖書は教えます。神様は二股を嫌う方です。僕らを支えておられるのは唯一の神様だけです。
(35-39)
主はイスラエル人と契約を結び、次のように命じられた。「ほかの神々を恐れてはならない。これを拝み、これに仕えてはならない。これにいけにえを献げてはならない。大きな力と、伸ばされた腕をもって、あなたがたをエジプトの地から連れ上った主だけを恐れ、主を礼拝し、主にいけにえを献げなければならない。主があなたがたのために書き記した掟と定めと律法と命令をいつも守り行わなければならない。ほかの神々を恐れてはならない。わたしがあなたがたと結んだ契約を忘れてはならない。ほかの神々を恐れてはならない。
あなたがたの神、主だけを恐れなければならない。主はすべての敵の手からあなたがたを救い出される。」
イスラエル人たちはいつも二股をかけました。主を礼拝しながら偶像に仕えました。そんな彼らを神様はアッシリヤに捕囚にしてしまいます。そしてイスラエル人たちがいなくなったその土地に外国人たちを住まわせました。移住してきた外国人たちは主を礼拝し従うように教育を受けましたが(28)、やはり主にも仕え、同時に自分が思う神々にも仕えました。
(33-34)
彼らは主を礼拝しながら、同時に、自分たちが移される前にいた国々の慣わしによって、自分たちの神々にも仕えていた。
彼らは今日まで、以前の慣わしのとおりに行っている。彼らは主を恐れることはなく、主がイスラエルと名をつけたヤコブの子たちに命じられた、掟や定めや律法や命令のとおりに行うこともない。
(40-41)
しかし、彼らは聞かず、以前の彼らの慣わしのとおりに行った。
このようにして、これらの民は主を礼拝すると同時に、彼らの刻んだ像にも仕えた。その子たちも、孫たちも、その先祖たちがしたとおりに行った。今日もそうである。
彼らは自分の偶像を手放すことを恐れました。神様は「ほかの神々を恐れてはならない。」と何度も繰り返して言われます。(35-39)でも、彼らは手放せませんでした。あなたは、「私の支えは( )だ」のカッコの中に何が入るでしょうか。正解は「唯一の神様」です。神様と僕らの関係には排他性があります。自分が頼りにしている見えるモノや人は偶像のように僕らを支配します。そしてそれは神様への裏切りであり浮気です。僕らを支えているのは唯一の主のみです。
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