クリスチャンにとって「死」は終わりでなく、主とお会いして栄光に変えられる通過点です。しかし、イエスの十字架の死は真逆です。イエス様の「死」は神からの怒りであり裁きであり、呪いです。イエス様は神の怒りとしての死を突きつけつけられました。イエス様は祈られました。
(42)
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
「杯」は旧約聖書によると神の怒りの象徴です。「この杯」とは、私たちの身代わりに受ける十字架での処刑です。他の福音書では「イエスは深く恐れもだえ始められた。」「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と書かれています。(マルコ14.33-34)罪人が神様の怒りに触れることは死ぬほどの苦しみです。いつも父なる神様と親しく交わっているイエス様にとってはこの裁きは何よりの苦しみでした。その死を目前に、イエス様はその苦しみを正直に祈りました。悲しいこと辛いことを正直に、具体的に神様に申し上げることは誠実です。イエス様でさえ、神様の前にもがき苦しみ、それを訴えています。
それでもイエス様の祈りは「しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」でした。(42)
自分の思い通りにしてください、というものではなく、自分が神様に従います、という祈りです。イエス様は苦しみの先にある全ての人の救いを知っていました。だから「みこころがなりますように。」と祈っています。
イエス様は僕らにもそのように祈りなさい、と言われました。「御心が天で行われるように地でも行われますように」という祈りです。(マタイ6.10)
僕らは願いが叶わないと「祈りが聞かれなかった」といいがちですが、そうではありません。祈りとは、祈りの中で自分が軌道修正させられて神のご計画と合っていく、というものです。
イエス様のように苦しみや悲しみを正直に言い、その中で神様に自分を委ねましょう。「わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」と祈ると悪や誘惑から守られます。祈らないなら、問題やトラブルにいつも自分で対処しようとしてしまいます。これこそ「誘惑」です。弟子たちは祈らずに自分たちで対処しようとしました。
(40)
いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。
(45-46)
イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに行ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。
そこで、彼らに言われた。「どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」
弟子たちは自分の気持ちを神様に言わず、神様のみ心に自分を委ねることもしませんでした。その結果、イエス様の逮捕に対抗して自分の剣で対応します。これこそが祈っていない人の特徴です。
(49-51)
イエスの周りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。
そして、そのうちの一人が大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。
するとイエスは、「やめなさい。そこまでにしなさい」と言われた。そして、耳にさわって彼を癒やされた。
僕らは祈る必要があります。神様との真実な交わりです。神様に自分の気持ちを明け渡し、これから起こる全てを委ねることができたなら、もうそれで十分です。祈りは全てに優先すべきことです。なぜなら僕らの人生は祈りの中で神様のみ心と一致していくからです。。イエス様は今日も僕らに「誘惑に陥らないように祈っていなさい」とおっしゃいます。(40、46)どんな状況でも、どんな気持ちであっても神様に報告し、連絡し、相談しましょう。祈りの中でしっかりと神に結びついている必要があります。それが「目を覚ましている」ことです。
イエス様はこの祈りがあって、そしてご自分を明け渡してユダの裏切り、拷問、十字架を忍耐されました。しかし、この祈りによってすでに準備ができていました。祈りこそが最大の準備です。祈ったら、あとは主に身を任せていくだけです。僕らも祈りましょう。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」と。そして「しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」と。祈りこそ本番であり、人生の中心です。祈ったことは神様が必ず介入し関わっていくださっています。祈りこそ全てです。ハレルヤ!
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