イエス様は全てを支配なさる神様なのに、誰よりも無力な赤ちゃんになり、しかも家畜の小屋で生まれ、大人になってからは殺される生贄として人々から捨てられ苦しめられ、罵られて十字架で自分をささげてくださいました。誰よりも低くなってくださったのがイエス様です。
だのに、僕ら人間は人より偉くなりたがります。力を持ちたがり、人に仕えるのを嫌がります。イエス様と真逆です。弟子たちも「誰が一番偉いか」という議論をしていました。
(23-27)
そこで弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始めた。
また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。
すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。
しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。
食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。
人に給仕するのは無理してできることではありません。
人に仕えるのは「イエス様が」してくださることであり、「イエス様の」ご性格です。イエス様を信じた人はイエス様の御霊が与えられていて、キリストがその人の中で生きておられます。
(ピリピ2.6-8)
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
「給仕する」という言葉は「執事」という言葉と同じです。教会の執事とは誰よりも人に仕える人のことです。自分ではムリです。これは御霊に明け渡すことによってだけできることです。だから聖書は執事を選ぶときは「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。」と言います。(使徒6.3)人に仕えることは御霊によってしかできないからです。
イエス様は人から捨てられて終わる方ではありません。復活され、全ての権威と栄光をお持ちです。同じように、イエス様と一緒に人に仕える人はイエス様と一緒に王権を持つようになります。給仕ばかりして、食べれなかった、損した、と悔しがる必要はありません。イエス様と一緒に飲み食いする素晴らしい特権が用意されています。
(29-30)
わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。
そうしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。
十二使徒はイエス様と一緒に支配し、イエス様と一緒に食卓につく素晴らしい未来が約束されています。十二使徒だけでなく、信仰者は全てイエス様と一緒に治める人になります。人に仕え、給仕することは損なことでもマイナスなことでもありません。イエス様と一緒に天の座につくのが僕らの将来です。
(エペソ2:5-6)
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、——あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。——キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
(黙示録 5:10)
私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
(2テモテ 2:12)
もし耐え忍んでいるなら、彼(イエス様)とともに治めるようになる。
今日も隣人に仕えましょう。自分から給仕しましょう。僕らの内側におられるイエス様の性格が僕らに現れてきます。ハレルヤ!
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