聖書によると、この世は一時的な場所であり仮の住まいです。この世の楽しみは消えて行き、永遠の祝福が与えられます。だのに、永遠の祝福よりも、消えていく楽しみや名誉や知恵ばかりを求めるのが僕ら人間の愚かさです。
エルサレムの人たちは神様が愛し祝福しようとしている人々です。だのに、全然神様のことばを聞く気がありませんでした。
神様の怒りと裁きがあるから、悔い改めて神様に戻りなさい、と警告しても、彼らは無視してこの世の快楽にふけります。神様に目もくれない様子が書かれています。
(12-13節)
その日、万軍の神、主は、「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ。」と呼びかけられたのに、 なんと、おまえたちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊をほふり、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから。」と言っている。
そのことを聖書は「おごった都」と言います。(2節)神様の怒りと裁きが始まり、彼らは死んでいくことが預言されています。病気で死ぬ人が増え、国が滅んでいくのは、明らかに神様の裁きだと聖書は言います。
(2-5節)
喧噪に満ちた、騒がしい町、おごった都よ。
おまえのうちの殺された者たちは、剣で刺し殺されたのでもなく、戦死したのでもない。おまえの首領たちは、こぞって逃げた。
彼らは弓を引かないうちに捕えられ、おまえのうちの見つけられた者も、遠くへ逃げ去る前に、みな捕えられた。
(…中略…)なぜなら、恐慌と蹂躙と混乱の日は、万軍の神、主から来るからだ。幻の谷(エルサレム)では、城壁の崩壊、山への叫び。
彼らがあまりにも神様を無視するので、敵に囲まれます。このようにしてエルサレム(ユダ)を守ってくれるものは全てなくなる、と聖書は預言します。…だのに彼らは懲りずに神様に戻らず、真っ先に武器を求め、水の確保をし、城壁を補強します。彼らは神様を知っているのに見えるものばかりを求め、優先します。
(8-11節)
こうしてユダのおおい(保護)は除かれ、その日、おまえは森の宮殿の武器に目を向けた。おまえたちは、ダビデの町の破れの多いのを見て、下の池の水を集めた。また、エルサレムの家を数え、その家をこわして城壁を補強し、二重の城壁の間に貯水池を造って、古い池の水を引いた。しかし、おまえたちは、これをなさった方に目もくれず、昔からこれを計画された方を目にも留めなかった。
神様を知りながらも無視し続ける罪は赦されない、と聖書は言います。
(14節)
そこで万軍の主は、私の耳を開かれた。
「この罪は、おまえたちが死ぬまでは決して赦されない。」と、万軍の神、主は仰せられた。
①自分の快楽や自分の名誉ばかりを求める人 ②神様を求め忠実でありたいと思う人
両者の実例が書かれています。
まず、①自分の快楽と名誉を求める人「シェブナ」という人です。
(15-16節)
万軍の神、主は、こう仰せられる。さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。
あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。
ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。
高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。
彼は王に仕える「執事」という立場でした。執事は「仕える人」という意味です。ところが彼は生きているうちから自分のために立派な墓を作り、高いところに自分の名前を刻んで栄光を残そうとします。神様は「あなたは一体何をしているのか?」と問います。
まるで自分のおかげでこの国はうまく行っている、と言わんばかりに記念碑のような墓を作り始めています。そんな彼の最後は神様に捨てられると言われています。
(17-19節)
ああ、勇者よ。主はあなたを遠くに投げやる。
主はあなたをわしづかみにし、 あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。
あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。
主人の家の恥さらしよ。わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。
神様の前に永遠になくならないものは、神様を愛し、人を愛することです。この世の自慢も業績もお金も消えて生きます。
次に、②神様を求め忠実でありたいと思う人
の実例です。
(20-21節)
その日、わたし(神様)は、わたしのしもべ、ヒルキヤの子エルヤキムを召し、あなた(傲慢だったシェブナ)の長服を彼に着せ、あなたの飾り帯を彼に締め、あなたの権威を彼の手にゆだねる。
神様のしもべであるエルヤキムを選び、長服を着せてくださいます。長服とは権威と美しさの象徴でした。
しもべは直訳で「奴隷」ですが、神様のしもべはかわいそうなことが一つもなく、逆に栄光と権威をもらえます。しもべなのに神様から全ての権威を預けられ、まるで国のお父さんのように尊敬されて国を愛して治めます。
(22-24節)
彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。
彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。
彼はその父の家にとって栄光の座となる。彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。
子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。
自分の思い通りにしようと思った人は思い通りにならずに恥を受け、自分を捨てて神様のしもべとなる人は権威と栄光を受けます。
いつも自分が、自分が、という人は神様にも人にも信頼されません。シェブナのように自分の自慢ばかりして、自分のためにお金を集めている人には神様は栄光もお金も権威も預けることができません。
この世の楽しみも栄光も消え去ります。それよりも、永遠の王である神様に忠実である方が正解です。この世で負けと思われても、しもべだと思われても大丈夫です。神様に信頼され喜ばれることはどんな栄光を受けるよりも価値があります。
今日も祈りましょう。自分の思い通りでなく、自分が褒められるのでもなく、御心が天で行われるように、地でも行われますように。
栄光が神様だけにありますように。
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