イエス様の十字架の姿の話を教えると「残酷すぎる」とか「怖い話はしないで欲しい」と言われることがあります。…ですが、聖書が伝えている神様の裁きはやっぱり怖いです。今日の箇所も神様の怒りとさばきです。神様の怒りと裁きを見聞きして、預言者イザヤも「恐ろしさのあまり、見るにたえない。」(3節)と言っています。
(3-4節)
それゆえ、私の腰は苦痛で満ちた。女の産みの苦しみのような苦しみが私を捕えた。私は、心乱れて聞くにたえない。
恐ろしさのあまり、見るにたえない。私の心は迷い、恐怖が私を震え上がらせた。
イスラエル人たちは神様よりも外国を愛し、外国の偶像を頼って神様を裏切りました。その結果お望み通りに外国(バビロン)に連れて行かれ、奴隷にされます。もちろんそうなる前に神様は警告してくださっていました。バビロンに奴隷にされたのは、元々は自分たちが選んだ罪の結果です。罪は僕ら人間を拘束します。覚醒剤を使うと自分が縛られるように、嘘を付くと自分が嘘に縛られるように、浮気をすると自分がそれに縛られるように、罪は人間を縛ります。イスラエルは神様を裏切って外国を慕い、その結果、偶像の国バビロンに縛られます。罪は人を縛ります。ところが、神様は人を縛る罪を怒り裁きます。今日の箇所は神様がバビロンを怒り裁くことが書かれています。それは突然で恐ろしいものです。
(1-2節)
海の荒野(バビロンのこと)に対する宣告。ネゲブに吹きまくるつむじ風のように(予想外の破壊的な突風のように)、それは、荒野から、恐ろしい地からやって来る。
きびしい幻が、私(イザヤ)に示された。裏切る者は裏切り、荒らす者は荒らす。
エラム(ペルシャのこと)よ、上れ。メディヤよ、囲め。すべての嘆きを、私は終わらせる。
バビロンは全くそれに気がつかないで宴会をしていました。平和で繁栄していると思っていたのに突然ペルシャとメディアの連合軍に滅ぼされます。宴会中に見張りが突然叫び出します。
(5節)
彼らは食卓を整え、座席を並べて、飲み食いしている。
「立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ。」
(8-9節)
すると獅子が叫んだ。
「主よ。私は昼間はずっと物見の塔の上に立ち、夜はいつも私の見張り所についています。ああ、今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵がやって来ます。彼らは互いに言っています。
『倒れた。バビロンは倒れた。
その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた。』と。」
バビロンが滅ぼされることは、恐ろしい神様の裁きでした。
…ですが、捕虜にされ罪に縛られていたイスラエル人たちにとっては嘆きの終わりであり、救いでした。
(2節)
すべての嘆きを、私は終わらせる。
(10節)
踏みにじられた私(神様)の民、打ち場の私の子ら(イスラエル人たち)よ。
私(イザヤ)はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。
黙示録によるとバビロンは罪の象徴だと書かれています。(黙示録17.5)
神様は罪に対して怒り、裁きます。裁きは恐ろしいものです。
神様がバビロンを裁いてくださったことは、イスラエル人にとっては救いでした。
同じように、イエス様が苦しんで殺されていく恐ろしい裁きの姿は、僕らにとっては救いです。神様の怒りと裁きをイエス様が身代わりに受けてくださったことで、僕らは救われました。
十字架の話は残酷で怖い話です。人々に捨てられ、罵られ、裸にされ、リンチを受け、頭皮に刺さるいばらの冠をかぶせられ、皮膚が裂けるムチを受け、生きたまま釘で貼り付けにされ、窒息して行きます。まさに「私は、心乱れて聞くにたえない。恐ろしさのあまり、見るにたえない。」ものです。ところが、あの恐ろしい十字架の呪いが僕らの救いです。
聖書が伝えている神様の裁きは恐ろしいものです。そして、その裁きは僕らの上ではなく、イエス様が受けてくださいました。
(ローマ 5:9)
今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
神様を恐れましょう。そしてイエス様に感謝しましょう。
(ヨハネ 5:24)
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿