困ったことがあると、何かに助けを求めます。個人でも国としても同じです。
この当時、エジプトとクシュ(エチオピア)は最強の国だったので、小さな国々はエジプトとの軍事同盟を求めました。エジプトとクシュはあらゆる面で繁栄していたし、反抗してくる国を踏みにじってきました。当時のエジプトの様子は「あちこちで恐れられている民(…中略…)多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじる国」と書かれています。(イザヤ18.2)
ところが「あの国と仲良くすれば大丈夫」と思っていても、神様の前では惨めで小さな存在です。それを教えるために、神様は預言者イザヤに恥ずかしい格好をさせて、エジプトの将来を見せて警告しました。
(2-4節)
そのとき、主はアモツの子イザヤによって、語られた。こうである。
「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた。
そのとき、主は仰せられた。「わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュ(エチオピア)に対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、 アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。
イザヤは恥ずかしい裸で歩き、やがてエジプトもこうなる、ということを警告しています。
エジプトに頼っていた人も同じように恥じる、という警告です。
(5-6節)
人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。
その日、この海辺の住民は言う。『見よ。アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来た私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうしてのがれることができようか。』」
この警告は神様だけを頼るように、というメッセージです。あんなによく見えた人が当てにならなかった、とか、必ず儲かるとか、大丈夫と思っていた相手が逆に何の役にも立たなかった、ということは今もよくあります。これまで安全だ、安心だと信じて疑わなかったものがもろくも崩れ去るのを見て、「これまで自分たちが信じてきたものはいったい何だったのか」と言って嘆くようになるのです。神様は軍事力を喜ばず、ただ神様を恐れ、神様の恵みを求める人を好まれます。
(詩篇 147:10-11)
神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。
主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。
昔、イスラエル人たちは、何の力もない奴隷だったのにただ神様の恵みだけでエジプトを脱出して守られました。だのに、どうして戻って行くのか、という警告です。
―――
この恥ずかしい裸のイザヤの格好はイエス様の惨めな姿と似ています。
聖書はイエス様の恥と苦しみと死を伝えています。裸にされ、苦しみを受け、十字架の上で殺されていったイエス様です。
あの姿は神さまから離れた人の結末、神様の怒りを受けた人の恥の姿です。
神様を頼らないなら、全ての人は死んで裁きを受けることを実例のようにイエス様が示してくださいました。
同時に、イエス様は復活されました。恥と死は勝利に変えられました。
神様の怒りを受けて、僕らに恥はあるけど、その恥はイエス様が受けてくださり、イエス様を信じる人はイエス様が復活されたように、同じように復活と勝利と栄光を受ける、と聖書は教えています。
イザヤは最悪の格好で警告しました。イエス様も最悪の格好で警告し、また救ってくださいました。
この救いの希望のメッセージを伝える時に、僕らも、イエス様を伝える時に恥を受け、惨めな思いをすることがあります。
イエス様を信じて従うことは、ある程度、この苦しみと恥にも連帯します。イエス様が嫌われ、悪く言われるように、僕らも悪く言われることにも参加することになります。
(ピリピ 1:29)
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。
聖書は、イエス様の恥と苦しみを忘れないように、パンを裂き、血の色をした盃を飲み、恥と苦しみを受けてくださったイエス様を思い出すように、と教えています。イエス様の十字架は神様の裁きを教えています。そして裁かれる人の恥を思い出させます。
そして、空の十字架は、処刑や恥が終わって、僕らにも復活があり、栄光があることを思い出させてくれます。
イエス様だけが救いです。天地は滅びます。それでも、この方に信頼する人は絶望することがありません。神様に求め、神様に頼りましょう。僕らが神様を見下し、この世の力を求め浮気することがありませんように。
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