僕らは人からされたいやなこと、いやな発言をずっと覚えてます。大事なことは忘れるのに、まるで予習復習するかのように毎日心の中で復習して、恨みや怒りを増幅させがちです。それは僕らを縛ります。が、イエス様が与えてくださるのは縛りではなく自由です。イエス様は言われます。
(ルカ6:37)
さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
嫌なことを言われたりされたりしたらこう祈りましょう。という祈りの例があります。
●その1 自分の気持ちを神さまの前に注き出す。
神さま( )を思い出します。( )なことがありました。(どのようなことがあったかを言う)
私はそれについて( )と感じています。(どんな気持ちか、具体的に言う。)
私はこのことで(人の名前をあげる。自分も含めて)のことを( )だと思っています。(憎しみ、さげすみ、悲しみなど正直に言う。)
●その2 自分がこのことにとのように対応したかを思い出す。
神様、わたしは、この出来事の中で(仕返し、悪口の拡散など)をしてあなたを悲しませました。どうそこれらの罪をゆるしてください。あなたのきよめを感謝します。
●その3 相手をゆるす
神さま(名前をあげる ) に対する気持をあなたににお任せします。私は(名前)をゆるします。
神さま(名前)をゆるさない心から私をきよめてください。そして、(名前)を祝福してください。
イエス様は僕らにゆるすように言う前に、まず誰よりもイエス様が私たちを赦してくださいました。
(コロサイ3:13)
互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
イエス様は自分を苦しめる人たちのために赦しを祈ってくださいました。イエス様の祈りは信じる人たちだけでなく、信じない人たちのためでもあります。
●自分を苦しめる人たちのために祈るイエス様
イエス様の十字架で貼り付けになって最初にされたのは赦しの祈りでした。
(32-34)
ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
「彼らを」とは、みんなです。今自分を苦しめている処刑しているローマ兵たち、そして自分を訴え続けた祭司たち、指導者たち、群衆、そして、自分を裏切って銀貨30枚で売ったユダ、逃げてしまった弟子たち。みんなです。
自分を苦しめる敵のために祈りと、そして本当に罪を赦すことはイエス様だけにできることです。しかも、この祈りは、イエス様を信じる私達にも与えられています。イエス様はおっしゃいました。主の祈りです。
(ルカ11:4)
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
イエス様がまず、自分を殺し罵る人たちのために赦しを祈ってくださいました。そのイエス様の聖霊によって私たちも敵を赦し、敵を祝福する祈りが与えられます。今度は私たちの番です。罪を犯す人たちのために祈りましょう。赦しましょう。
●罪とは、何をしているのかわからなくなることです。
(34)
「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
罪とは、何をしているかわからなくなることです。
イエス様を殺す人たちは、正しく良いことをしている、と思っています。
罪とは高ぶりです。神より自分が上、と言うことです。神様より自分の意見が正しいと思った瞬間にもう真実はわからなくなります。
なぜならイエス様ご自身が真理だからです。神様は真実な方であると聖書は繰り返します。
ところが人間はアダムとエバの時代から人間的な善悪判断を手に入れ、それを真実だと思うようになりました。神様より自分の善悪判断を優先した時に、もう神様の真実は見えなくなります。
まさに、イエス様は「彼らは何をしているのかわかっていないのです」と言う通りです。
●赦しと愛を知る時に、罪を認め祝福を受けることができます。
一緒に十字架につけられた犯罪人もイエス様を罵りましたが、ひとりの犯罪人は途中で目が開かれて自分が高ぶってきたこと、神様を恐れずひどいことをしてきたことに気がつきます。
(39-42)
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
彼が気がついた自分の罪は人に対する罪ではなく、まずは神に対する罪でした。イエス様を罵る犯罪人に「おまえは神を恐れないのか。」と言い、自分は報いを受けて当然だ、ということに気がつきます。彼がそれに気がついたのは、罪のないイエス様が罪人のために祈ってくださっているその祈りを聞いたことがきっかけでした。
神の怒りとさばきだけなら、誰でも罪を認めたくないし、「自分は悪くない」と頑張ります。でも、赦しと愛の犠牲を知った時に僕らは背伸びをやめて、正直になることができます。彼は自分のしたことは死刑になって当然だと認めます。この人は、「十字架から降ろしてください」とはお願いしませんでした。殺されて当然の罪人だと認めます。そして、イエス様こそ、この世界の王国を支配される方だと信じます。
(41-42)
おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。
罪がわかることは、絶望ではなく神様からの恵みです。なぜなら罪を認めてイエス様にすがる人は赦されるからです。 イエス様は彼を完全に赦し、イエス様のみもとに招いてくださいました。
(43)
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
パラダイスというのは園とか神様のみもと、という意味です。この人は洗礼も受けなかったし、良い行いもしませんでした。でも、イエス様を信じ、自分の罪を認めお願いしました。イエス様はそんな彼に「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と言ってくださいます。
僕らの番です。今日も高ぶり認めましょう。自分の罪を認めてイエス様に告白しましょう。そして、赦しましょう。イエス様が赦してくださったように赦しあいましょう。イエス様が赦してくださっています。イエス様が受け入れてくださってます。永遠に一緒に永遠にいてくださいます。ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿