イエス様を信じた人は自由を手に入れ、選択肢が増えます。例えばキライな人がいたとしてもその人を愛するか憎むか、どちらも自由に選べます。赦すか復讐するか、自分で決めることができます。
ところがイエス様を知らない人は選択権がありません。、キライな人がいたら、その人を嫌う、攻撃する、憎むなど一択です。イエス様は「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」とおっしゃいました。(ヨハネ8.34)罪の奴隷になってる人は怒りと復讐、殺意から逃がれることができません。縛られ、コントロールされてしまいます。そしてそれにも気がつきません。
祭司長、律法学者たち、長老たちはイエス様を憎み、妬み、殺す、という決断をしました。彼らは怒りと殺意に縛られていました。自分たちの律法ではイエス様を死刑にできないので、ローマ帝国(皇帝カエサル)に反逆している、という話を作り上げてイエス様を有罪にしようと訴えました。
(1-2)
集まっていた彼ら全員は立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。
そしてイエスを訴え始めて、こう言った。「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。」
イエス様はカエサルに納税するように教えています。(20章)が、彼らは「カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っている」と訴えます。怒りと殺意に縛られた人はイエス様を死刑にすることを決めていて、そのためには何でもしようとします。ピラトは「この人には、訴える理由が何も見つからない」(4)と言いますが、彼らは「この者は、ガリラヤから始めてここまで、ユダヤ全土で教えながら民衆を扇動しているのです」と頑張ります。
憎しみと妬みに支配されている彼らは総督がなんと言おうと自分たちの殺意の決心を曲げません。
そんな彼らの怒りと殺意をイエス様は黙って受けてくださいました。
当時の裁判官でもあった総督ピラトも、ガリラヤの領主ヘロデもイエス様に何の罪も見出せませんでした。
(マタイ 27:18)
ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。
法廷では全く罪がないと認められたイエス様です。ただ黙って人々の憎しみと怒りと殺意を受けてくださいました。それは僕らの罪を引き受けるためでした。
(1ペテロ 2:22-24)
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
この後、イエス様はひたすら悪意と殺意の訴えを受け、愚弄されますが、一言もお答えになりませんでした。イエス様は敵を赦すことに関しても復讐しないことに関しても完全に自由でした。
(8-11)
ヘロデはイエスを見ると、非常に喜んだ。イエスのことを聞いていて、ずっと前から会いたいと思い、またイエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった。
祭司長たちと律法学者たちはその場にいて、イエスを激しく訴えていた。
ヘロデもまた、自分の兵士たちと一緒にイエスを侮辱したり、からかったりしてから、はでな衣を着せてピラトに送り返した。
罪の奴隷の人は、怒りと侮辱と攻撃の一択です。でも、イエス様は忍耐し赦す選択をし続けてくださり、十字架の上でも「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」と祈られました。(34節)イエス様は実は一瞬で敵を殺すことができる権威ある方です。でも、父なる神様のご計画に従って仕返しせず、ご自分から人々の罪を背負われました。
僕らもかつては罪の一択でした。でも、今は奴隷から解放され、敵を赦すことも、愛することもできる自由が与えられています。「主の御霊のあるところには自由があります。」(2コリント3.17)
(ローマ6.6-7)
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
イエス様は完全に自由な方です。そしてイエス様を信じた僕らも自由を手に入れました。
イエス様を信じた僕らはイエス様と一緒に敵を愛し、迫害する人のために祈ることができます。今日も罪から、恨みから、他人から受けた悪から自由でありますように。罪や誘惑に縛られることがありませんように。
(ガラテヤ 5:1)
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
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